アル・ジュムア(アラビア語: الجمعة, “金曜日”)はコーランの第62章で、11節からなる。この章がアル・ジュムア(”金曜日”)と名付けられたのは、この日が集会の日であり、共同体が交易、取引、その他の娯楽を放棄して、すべてを包み込む真理と最も有益なものを求め、もっぱら “神の恩恵 “を仰ぐために集会を開く日だからである。この章は、神への賛美から始まるので、アル・ムサッビハート・スーラである。
啓示は、高潔さと知恵を教えるために、知識を持たない人々の間にのみ下されたのではない。以前に下されたメッセージを保持してはいるものの、それらを理解していない人も対象として含まれている。現世の利益にまどわされ、啓示から逸らされることのないよう、合同でのジュムアの礼拝(金曜礼拝)には粛然として参加するのが望ましい。
الجمعة【アラビア語】
合同礼拝 (集会) アル=ジュムア 朗読音声
合同礼拝 (集会) アル=ジュムア【日本語訳】
慈悲あまねく、慈悲深いアッラーの御名において。
1 諸天にあるもの、大地にあるもの、すべてがアッラーを讃美する。王者たる御方、もっとも威力ある御方、もっとも賢明な御方。 2 文字を知らない者たちの中に、彼らに御しるしを読み聞かせ、彼らを清らかにし、啓典と知恵を教えるひとりの使徒を、彼らのあいだから立ち上がらせた御方。それ以前の彼らは、もっとも賢明な御方。 3 またその他の、いまだ彼らに加わっていない者たちにさえも。もっとも威力ある御方。もっとも賢明な御方。 4 これがアッラーの御恵み、この御方は、御心にかなう者にそれを与える。アッラーは大いなる御恵みの所有者。 5 (ムーサーの) 律法を担っていながら、そののちそれを担えなくなった者とは (何も理解しないまま) 諸々の書物を運ぶろばのようなもの。アッラーの御しるしを嘘よばわりする民の例えの、何という悪さか。アッラーは不正をなす民を導かない。 6 (ムハンマドよ、) 言いなさい。「ユダヤ教徒たちよ。人々をさし置いて、自分たちだけがアッラーの友であると言い張るなら、死を賜るよう願いなさい、もしあなたがたが真実を語っているのなら (、ただちに楽園に入れるだろう)」。 7 しかし彼らは、その手で送り出してきたことのために、決してそう願わないだろう。アッラーは不正をなす者のことをよく知っている。 8 (ムハンマドよ、) 言いなさい。「あなたがたが逃れようとしている死は、必ずあなたがたに追いつくだろう。そののちあなたがたは、目には見えないものと見えるものとを知る御方へ引き戻される。かの御方はあなたがたに、あなたがたの行ってきたことについて告げ報せるだろう」。 9 信じる者たちよ。集会の日に礼拝の呼び声を聞いたときは、アッラーを想い起こすことに急ぎ、取引から離れなさい。その方があなたがたのために良い、もしあなたがたが知ってさえいたなら。 10 礼拝を済ませたとき、地上のあちらこちらに散ってアッラーの御恵みを求めなさい。大いにアッラーを想い起こしなさい。そうすれば、あなたがたは栄えるだろう。 11 しかし品々や娯楽を目にするとき、彼らは、立っているあなたを残してそちらの方へ駆けていく。言いなさい。「アッラーの御許にあるものの方が、どのような娯楽や品々よりも良い。アッラーは、糧をもたらす者としてもっともすぐれている」。
合同礼拝 (集会) アル=ジュムアの解説と解釈
☪︎ 啓典と知恵を教えるひとりの使徒
人間を導くために預言者を遣わすことは、神の性質を、人間のレベルで表現することである。預言者ムハンマドをはじめとする預言者たちの仕事は2つあった。ひとつは、神のメッセージを人々に伝えることであり、もうひとつは、人々の意識を目覚めさせ、神の教えを理解し、現実の生活と結びつけることだった。今後も、ダワー(真理への呼びかけ)そして宗教改革に関わる仕事は、クルアーンの教えと知的・精神的な育成のふたつに分かれるだろう。
☪︎ 諸々の書物を運ぶろばのようなもの
神の啓典が、ある集団に与えられるとき、それに従うことを目的として与えられる。しかし、そのような意味で啓典の担い手にならない集団は、それが何であるかを意識せず、学書を乗せられたロバのようなものである。
☪︎ 人々をさし置いて、自分たちだけが
ユダヤ人たちは自分たちの宗教の教えに従っていなかったが、宗教を自分たちの誇りのしるしにしていた。しかし、このようなプライドは何の役にも立たない。高慢な人は、自分が高慢にしてきた宗教のために犠牲を払おうとはしない。しかし、死がそのような人々を襲うとき、この世で生きていた誇りが、来世では不名誉以外の何物でもないことを知ることになる。
☪︎ アッラーを想い起こすことに急ぎ、取引から離れなさい
この世界では、人間は2つの異なる方向に引っ張られる。第1に、経済的側面、第2に、宗教的側面である。この2つの考慮はそれぞれ避けられないものだ。しかし、両者の関係は、経済活動が宗教の呼びかけに従属するようなものでなければならない。人間は、合法的な範囲内で経済的向上のために努力することが許される。しかし、経済的な成功を収めたとしても、それは神からの贈り物だと考えることが肝心である。さらに、生活の糧を得る過程において、絶えず神を思い起こさなければならない。同様に、何か宗教的な仕事をするよう求められたら、他の仕事をすべて放り出して即座に応じるべきである。
☪︎ 礼拝を済ませたとき、地上のあちらこちらに散って
礼拝が終わった後には、信仰者たちは神の惜しみなき恩寵を求め、神を賛美し、また病人を見舞ったり、友人を訪れたり、その他のなすべきことをするなど、善行にはげむよう推奨される。
☪︎ 立っているあなたを残してそちらの方へ
あるとき、預言者が金曜礼拝のホトバ(説教)をしているところへ隊商が到着した。隊商が到着した際には、到着を知らせ、その喜びを示すために太鼓を打ち鳴らすという習慣があった。その太鼓の音を聞いて、多くの者がその場を立ち去ってしまい、預言者の話を聞くためにマスジドに残った信仰者はわずか十名ほどという始末であった。
これらの節は、それに伴って啓示されたもの。ここでの教えは、直接的には金曜日の礼拝に関わるものだが、間接的にはあらゆる宗教的な行いに適用されるものだ。何か宗教的目的のために人々が、集まっている時はいつでも、イマーム(集まりの指導者)の許可なくその場を離れることは非常に不適切である。
FRIDAY (al-Jumu’ah)【英語訳】
関連記事:戦列 📖 アッ=サッフ【第61章】クルアーン~一神教的な信仰が優位に立つ
関連記事:偽信者たち (偽善者) 📖 アル=ムナーフィクーン【第63章】クルアーン~来世の到来が避けられない
参考図書: