アル・フジュラート(アラビア語: الحُجُرات, al-ḥujurāt 意味: 部屋)は、クルアーン第49章であり、18の節がある。この章には、イスラームの預言者ムハンマドに対する正しいふるまいや態度、確認なしに情報を鵜呑みにして行動することの禁止、平和と和解の呼びかけ、中傷、疑い、陰口に対する禁止など、ムスリム社会で守るべき礼儀作法や規範が記されている。また、この章ではムスリム間の普遍的な兄弟愛を表明している。第13節はコーランの中で最も有名な節の一つであり、ムスリム学者たちは、人種や 出身に関して平等を確立するものであると解している。
この章はメディナのスーラであり、ムハンマドが率いる新興イスラム国家がアラビアの大部分にまで広がっていたヒジュラ9年(西暦630年)に啓示された。ムスリムの史学者たちは、いくつかの節(2-5節または4-5節のみ)を、メディナにおけるムハンマドのもとへのバヌ・タミーム使節団の行動に関連づけた。この章では、使節団の行動を厳しく戒め、ムハンマドと接する際の手順を定めている。
الحجرات【アラビア語】
部屋 (私室) アル=フジュラート 朗読音声
部屋 (私室) アル=フジュラート【日本語訳】
慈悲あまねく、慈悲深いアッラーの御名において。
1 信じる者たちよ。何ごとにおいても、アッラーとその使徒よりも (あなたがたの都合を) 先んじてはならない。アッラーを畏れなさい。本当にアッラーはすべてを聞き、すべてを知る。 2 信じる者たちよ。あなたがたは、預言者の声以上に声高になってはならない。あなたがたが互いに大声で話すように、彼に対して大声になってはならない。さもないとあなたがたの行いは、あなたがたも気づかないうちに全くの無に帰されるだろう。 3 アッラーの使徒の前でその声を抑える者とは、アッラーがその心の篤信を試みた者のこと。彼らには、赦しと大いなる報酬があるだろう。 4 (預言者よ、) 本当に、私室の外からあなたを呼ばわる者たちの多くは、考えることをしない者たち。 5 もし彼らが、あなたが彼らの前に出てくるまで待てるものなら、その方が彼らのために良い。アッラーはもっともよく赦し、もっとも慈悲深い。 6 信じる者たちよ。もし背く者があなたがたに (何かしらの) 報せをもって来たなら、よく確かめるようにしなさい。さもないとあなたがたは無知のために民を傷つけ、自分たちのしでかしたことを後悔するだろう。 7 あなたがたの中にアッラーの使徒がいることを知りなさい。もし彼が多くのものごとについてあなたがたに従っていたなら、あなたがたは必ず忌むべきことになっていただろう。しかしアッラーは、あなたがたにとり信仰を愛すべきものとし、それによりあなたがたの心を飾り、またあなたがたが、(真理を) 拒むこと、背くこと、逆らうことを嫌うようにした。これらの者こそ、正しく導かれている者。 8 (それは) アッラーからの御恵みと恩寵。アッラーは、すべてを知りもっとも賢明である。 9 もし信仰者が二派に分かれて争うなら、あなたがたは双方のあいだを和解させなさい。しかし、もし彼らのうち一方が他方を抑圧しているなら、抑圧している方と戦いなさい、彼らがアッラーの命令に立ち返るようになるまで。それでもし立ち返ったなら、公正に双方のあいだを和解させなさい。公平にふるまいなさい。本当にアッラーは公平な者を愛する。 10 信仰者たちは同胞である。それゆえあなたがたは同胞のあいだを和解させなさい。アッラーを畏れなさい。そうすれば、あなたがたは慈悲にあずかるだろう。 11 信じる者たちよ。あなたがたは、どの民にも他の民を嘲笑させてはならない。彼ら (嘲笑された者) の方が、彼ら (嘲笑した者) よりもすぐれているかもしれない。また女たちも、他の女たちにそうしてはならない。彼女たち (嘲笑された者) の方が、彼女たち (嘲笑した者) よりもすぐれているかもしれない。あなたがた自身も中傷してはならない。互いをあだ名で呼ばわってはならない。信仰を得た後になって背信の名をつけるのは悪いこと。それで悔い改めないようなら、これらの者こそ不正をなす者。 12 信じる者たちよ。あなたがたは、できる限り憶測を避けなさい。本当に憶測することは、場合によっては罪となる。互いに相手のことを探り合ったり、陰口をしたりしてはならない。あなたがたの中に、死んだ同胞の肉を食べたがる者が誰かいるのか。いいや、むしろあなたがたはそのようなことを嫌うはず。アッラーを畏れなさい。本当にアッラーは、幾度でも悔い改めを受け入れる、慈悲深い御方。 13 人々よ。本当にわれらはあなたがたを男と女とに創造し、また民族と部族にしておいた。これはあなたがたに、互いのことを知り合うようにさせるため。アッラーの御許においては、あなたがたの中でもっとも貴い者とは、あなたがたの中でもっとも畏れる者のこと。本当にアッラーはすべてを知り、熟知している。 14 アラブ (の部族) たちは言う。「私たちは信じます」。(ムハンマドよ、) 言いなさい。「あなたがたは (未だに) 信じていない。ただ『服従します』とだけ言いなさい、あなたがたの心の中には、まだ信仰は入っていないのだから。しかし、もしあなたがたがアッラーとその使徒に従うなら、御方はあなたがたの行いを、いささかも損ねることはしないだろう。本当にアッラーはもっともよく赦す、もっとも慈悲深い御方」。 15 信仰者とは、アッラーとその使徒を信じ、疑惑を抱かず、自分の財も自分自身もアッラーの道に投じて励む者たちのことに他ならない。これらの者こそ、真実の人というもの。 16 (ムハンマドよ、) 言いなさい。「あなたがたは、アッラーに自分の宗教を教えようというのか。諸天にあるものも大地にあるものも、アッラーはすべて知っているというのに。アッラーは、ありとあらゆるものごとをすべて知っている」。 17 彼らはイスラームを受け入れ、それであなたに恩を施したものとみなしている。言いなさい。「あなたがたがイスラームを受け入れたからといって、私に恩を施したことにはならない。いいや、むしろあなたがたを信仰に導くことにより、アッラーがあなたがたに恩を施したのである。もしあなたがたが、真実を語っているのなら」。 18 アッラーは諸天と大地の、目には見えないものを知っている。アッラーは、あなたがたが行っていることをすべて見ている。
部屋 (私室) アル=フジュラートの解説と解釈
☪︎ アッラーとその使徒よりも先んじてはならない
アッラーとその預言者とは誰か? 預言者ムハムマドの時代には、集会で、預言者の説教に優ることを目指し、饒舌になるものがいた。その結果、神と預言者が定めた指導原則を無視した意見を述べるようになった。このような過ちを犯すのは、神が自分を見守っておられることを忘れてしまうからである。自分の発言が他の人間に届く前に神に届くことを知れば、話すよりも黙っていることを選ぶだろう。
☪︎ 私室の外からあなたを呼ばわる者たち
あるベドウィンの一団が、午睡中の使徒の部屋にやってきて、表へ出るよう彼を大声で呼ばわった。この節は、その時に啓示されたものである。
預言者に会うために、アラビアの様々な地域からやって来た人々の中には、礼儀作法にまったく無頓着な者も混じっていた。自分たちの到着を知らせるのに、使者を向かわせる代わりに大声で叫び、預言者の妻たちの部屋の外から、彼の名を呼ばわる始末であった。この種のふるまいは預言者を大いに悩ませたが、生来の情け深さから寛容に遇していた。しかしついに彼らのこうした非文明的な行為を叱責し、どうふるまうべきかを諭す神の執りなしが下されたのである。
マディーナ周辺のベドウィン部族は、分別が無かった。預言者ムハンマドの集会に来た時、彼らは『神の預言者』とは呼ばず、『ムハンマド』と呼び捨てにした。彼らの話し方は慎ましくも謙虚でもなく、威圧的であった。このような振る舞いは禁じられていた。預言者はこの世における神の代理人である。彼に対するこのような無作法は、神に対する無作法に等しく、人間としての絶対的な価値を失わせる。
預言者ムハンマドの死後、彼のもたらした導きが後を継いでいる。生前の預言者への従順が要求されたように、この神の導きにも従順が要求されるのである。
神への畏れは人を真摯にする。神への畏れが人の心に深く入り込めば、現実のすべてを知るようになる。
☪︎ 報せをもって来たなら、よく確かめるように
ワリード・イブン・ウクバが、預言者の使者としてムスタリク一族を訪れた際のことである。ワリードとこの一族との間には、イスラーム以前のジャーヒリーヤの時代からの敵意がくすぶり続けていた。そのため疑心暗鬼に陥ったワリードは、戻るなりムスタリク一族が背教したと報告した。預言者はワリードの息子ハーリドを使者に送って真偽を問うた。その時、この節が啓示された。ムスリムは、この節が示す指針に従うべきである。すなわち、重要な報告を受け取った際には、どのような時であろうと鵜呑みにしてはいけない。その報告について確認し、また報告をもたらした人物についても調べるべきである。調べた結果、その人物が日頃から信の置けない不誠実な者であることが判明することもある。何ごとにおいても、何が真実であるかを慎重に確認しなくてはならない。
正しい導きの道を歩む者は、そうでない者とはまったく異なる気質を身につける。他人に対して非難を浴びせることを嫌う。まだ調べていない不祥事について口外するよりも、黙っていることを好むのだ。このような性格であることは、神の恩寵を分け与えられている表れである。信仰が自分たちの人生に浸透していることが、認められているのだ。
☪︎ あなたがたは同胞のあいだを和解させなさい
イスラム教徒は互いにどのように生き、どのように振る舞うべきか? この質問に対する簡潔な答えは、兄弟として共に生きるべきだということである。決して宗教的な関係は、血縁関係よりも優先されるべきものではない。
二人のムスリムが喧嘩をした場合、他のムスリムは決して火に油を注いではならない。それどころか、兄弟として、二人の間に妥協をもたらすためにあらゆる努力を払うべきである。そして、中立の立場をとることも一つの方法である。正しいイスラームの道とは、真相を究明することであり、正しい者は支持されるべきであり、間違っている者は正当な解決策を受け入れるよう求められるべきなのである。
神を畏れる者は、信仰によって、神の恩寵への扉が開かれる。人々が互いに争っている光景を決して喜ぶことはできない。実際、そのような光景を見ると非常に不安になり、両者の関係を改善する努力をせざるを得なくなる。
☪︎ どの民にも他の民を嘲笑させてはならない
侮辱や中傷には、言葉が用いられることもあれば、誰かの真似をしてみせたり、あからさまな罵倒ではなくとも暗に棘や含みのある言い方をしたり、誰かの言葉や行動、容姿や服装を笑ったり、ある者のささいな欠点を別の誰かに知らせ、一緒になって笑ったりすることも含まれる。
生まれたときから、すべての人間には『素晴らしい人間』になりたいという本能が秘められている。そのため、他人の弱点を見つけると、それを強調しようとする。自己顕示欲を満たすために、相手を嘲笑し、欠点を見つけ、侮辱的なあだ名で呼ぶ。
善悪の基準は、自分で決めるものではない。神の目から見て善人であれば善人であり、神の目から見て悪人であれば悪人である。他人を嘲笑し、欠点を見つけ、あだ名をつけることは、その人にとってすべて無意味になる。なぜなら、人間の立場や権限は、実際には神によって決定されるからだ。そして、もしこの世で誰かをちっぽけな存在と見なし、その後、来世でその人が尊敬に値する存在として扱われるなら、その考え方はまったく無意味であることがわかるだろう。
☪︎ 互いに相手のことを探り合ったり、陰口をしたりしてはならない
預言者は陰口について、「自分のきょうだいについて、本人を煩わせるようなやり方で語ることである」と定義している。これに対し、次のように問う者があった。「事実として、本人に欠点がある場合にはどうなるのですか」。預言者の答えは次の通りである。「欠点が事実であったとしても、陰口であることに変わりはない。また、もしもそれが事実でなかったなら、中傷したことになるだろう」。ここでの唯一の例外は、害悪を解決するために、本人が不在の場でそうした指摘を行うことが不可欠であり、それが結果としてやむなく陰口になってしまった場合のみである。そしてそれ以外の手段があるにもかかわらず陰口に頼った場合は、より大きな害悪に発展する可能性が高い。
他人にたいして疑念を抱くと、すべてが間違っているように見え、否定的で間違った方向に心が流れ始める。相手の良いところよりも欠点を探し始める。弱点を指摘し、それを非難するのが当たり前となる。
他人にたいして疑念を抱くと、すべてが間違っているように見え、否定的で間違った方向に心が流れ始める。相手の良いところよりも欠点を探し始める。弱点を指摘し、それを非難するのが当たり前となる。
多くの悪の根源は、根拠のない疑念である。したがって、人間はこのことを注意しなければいけない。そのような疑いを心に抱くことを許してはならない。
もし誰かを疑っているなら、いつでもその人に会って率直に話すことだ。その人が自分を守るために話さないとしても、その人の悪口を言うことは非倫理的である。誰でも、時にはそのような間違いを犯すかもしれない。しかし、神を畏れる者であれば、そのような行為に固執することはないだろう。神への畏れが自分の過ちを警告し、その結果、間違った態度をあらため、神の赦しを求めるようになるのである。
☪︎ あなたがたを男と女とに創造し、また民族と部族にしておいた
すべての人間は平等な者として誕生する、人間は皆アーダムとハウワーの子孫であり、自らの祖先を、他者のそれよりも優越していると吹聴するような高慢に陥ってはならない。誰かが他者よりも優れているということがあるとすれば、それは唯一、篤信においてのみである。
ある者は黒人であり、またある者は白人であり、ある者は熱帯雨林の出身であり、ある者は寒地荒原の出身である。しかし、これらの違いは区別・差別するためではなく、性質などを見分けるためのものである。実際、こうした違いが、ある人と別の人、あるコミュニティと別のコミュニティ、ある国家と別の国家を隔てる区別・差別に利用され、多くの弊害が生まれてきた。人類はそのような偏見によって引き裂かれてきた。
人間はその起源から見れば、すべて同じである。その中で、もし区別するとすれば、それは誰が神を畏れ、誰がそうでないかということである。それさえも、神だけが知っていることであり、人間にはわからない。
☪︎ あなたがたの心の中には、まだ信仰は入っていない
アサド一族の子孫を中心とした砂漠のアラブの一団が、預言者を訪れて次のように述べた。「私たちはイスラームに入信しました。私たちは、他の者たちと違ってあなたに戦いを挑むようなことはしませんでした」。この節では、彼らは、口先だけで語っており、信仰が心の中にまで入ってはいないことが示されている。彼らは飢饉の折に、イスラームに入信したという前提で預言者に慈善を求めにやってきたのだった。
マディーナの町周辺には多くの小部族がいた。預言者がマディーナに移住した後、これらの人々はイスラームを受け入れた。しかし、彼らがイスラームを受け入れたのは、深い精神的変容の結果ではなかった。神の目から見て、純粋にイスラームの信仰を受け入れる人とは、真実としてイスラームを見いだし、自分の心の奥底に深く刻み込む人のことである。このような形で神の教えを受け入れる者は、確固たる信念を得る。そのような者の心の揺るぎなさは、どんな犠牲を払うこともいとわないほどである。
人は何か正しい行いをし、その事実を告げる必要があると考えるかもしれないが、そのような告知は実際には無意味なものである。本当に正しい行いとは、純粋に神のために行うものである。神ご自身がすべてを知っておられるのだから、それを公にする必要がどこにあろうか。
☪︎ 私に恩を施したことにはならない
信仰と善行はすべて、神の指示的な導きに依存している。だから、何か良いことをする立場にある時はいつでも、そのことを神に感謝すべきである。
そうする代わりに、自分がしたことで、同胞の宗教家たちに恩義を感じさせようとするのであれば、それは神への配慮からではなく、同胞の目によく映るように行動したことになる。神はすべてを直接知っておられる。神のために何らかの仕事をする者は、神が自分の働きを見ておられ、それを神に示す必要はないと固く信じるべきである。
THE CHAMBERS (al-Hujurat)【英語訳】
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