イスラームの基幹
身体と言葉をもって行われる種類の崇拝行為を、イスラームの基幹と呼びます。それはイスラームという宗教がそれを基礎にして成立し、かつその実践をもって人がムスリムかどうかを判断される基準となるものです。その基幹とは以下のようなものです:
- 二つの信仰証言(シャハーダ):イスラームにおける言葉に関連した基幹です。
- 礼拝(サラー)と斎戒(サウム):イスラームにおける二番目と四番目の基幹であり、いずれも身体に関連した崇拝行為です。
- 義務の浄財(ザカー):三番目の基幹で、義務の喜捨をするという身体に関連した崇拝行為です。
- ハッジ(マッカ巡礼):身体と言葉いずれにも深く関連した、五番目の基幹です。また財産の出費も伴います。
イスラームはムスリムに対し、ただ理由もなくこのような崇拝行為の実践を課したわけではありません。これらの行為によって、彼らの魂が浄化されるためなのです。礼拝(サラー)について、至高のアッラーはこう仰いました:
実にサラー(礼拝)は醜行と悪事を妨げる。(クルアーン 29:45)
また義務の浄財(ザカー)について、至高のアッラーはこう仰っています:
彼らの財産から施しのためのものを取り、それでもって彼らを(罪から)清め、浄化してやるのだ。(クルアーン9:103)
また斎戒(サウム)に関しては、至高のアッラーはこう仰います:
信仰する者たちよ、あなた方以前の者たちにも定められたように、あなた方にも斎戒(サウム)が課せられた。(それによって)あなた方は敬神の念を獲得するであろう。(クルアーン 2:183)
斎戒(サウム)は自制心や自己規律の精神を教えると共に、人が欲望の中に溺れてしまわないように訓練する効果があります。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言っています:
「アッラーは、下卑た言葉や行いを慎まない者がその飲食を放棄することをお受け入れにはならない。」(アル=ブハーリーの伝承)
またハッジ(巡礼)について、至高のアッラーはこう仰っています:
ハッジ(の季節)は周知の数ヶ月*である。それでその間にハッジをしようとする者は、淫らな言動や罪深い行いや言い争いをしてはならない。(クルアーン 2:197)(*「数ヶ月」とは一般に、イスラーム暦の 10月、11月、そして 12月の最初の 10日間の計 2ヶ月 10日間のことです。)
イスラームにおいて崇拝行為はムスリムの統一を維持すると共に、優れた作法の改善においても大きな役割を果たしています。以下にイスラームの基幹をご説明しましょう:
第一番目の基幹:二つの信仰証言(シャハーダ)
これは「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダン・アブドゥフ・ワ・ラスールフ(私はアッラーの他に真に崇拝すべきものはなく、ムハンマドはそのしもべであり使徒であることを証言する)」という証言のことです。これはイスラームにおける言葉に関連した基幹、この証言にはそれに則った信仰と行為も要求されます。またこの証言こそが、イスラーム改宗の鍵となります。
一番目の証言「アッラーの他に真に崇拝すべきものはなし」の意味:
これはいわゆるタウヒード*の言葉です。そしてこの概念のもとにアッラーは被造物を存在せしめ、天国と地獄を創造したのです。至高のアッラーはこう仰いました:(*「タウヒード」とは、その主性、崇拝される対象としての権威、美名と属性におけるアッラーの唯一性を示す概念です。)
そしてわれ(アッラーのこと)はジン(精霊的存在)と人間を、われを崇拝させるべくして創造したのだ。(クルアーン 51:56)
そしてこの概念こそは、アダムから最後の預言者ムハンマドに至るまでの全ての預言者と使徒たち(彼らにアッラーからの祝福と平安あれ)が人々をそこへといざなってきた信仰なのです。至高のアッラーはこう仰いました:
あなた以前にわれら(アッラーのこと)が遣わした使徒の内で、「われ(アッラーのこと)の他に神はない。だからわれを崇拝するのだ。」という啓示を与えなかった者はいなかったのである。(クルアーン 21:25)
この証言の最初の部分「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー(私はアッラーの他に真に崇拝すべきものはないと証言する)」は、以下のような意味を含みます:
● アッラーが全ての存在の創造主であること。至高のアッラーはこう仰いました:
かれこそがアッラー、あなた方の主である。かれ以外に崇拝すべきものはない。かれは全ての創造主であるのだ。ゆえにかれを崇拝せよ。かれは全てにおいて(そのしもべから)委任されるべきお方なのである。(クルアーン 6:102)
● アッラーが存在する全ての存在の真の所有者であり、かつその諸事を司る存在であること*。至高のアッラーはこう仰っています:(*一番目と二番目はいわゆる「主性におけるタウヒード」と呼ばれているものです。これはアッラー以外にはいかなる創造主も供給者も、維持者も所有者もいないという概念です。)
かれにこそ創造と全ての権限は属する。万象の主アッラーの崇高さよ。(クルアーン 7:54)
● アッラーのみが崇拝されるに値するということ*。至高のアッラーはこう仰っています:(*一方これは「崇拝される対象としてのタウヒード」と呼ばれるものです。)
アッラーにこそ、天にあるものも地にあるものも属しているではないか?アッラーを差し置いて(彼らがその)併置者(と見なすもの)を拝している者たちは、(実際のところ)それらに従っているわけではない。彼らは実に(根拠なく)憶測しているに過ぎない。彼らは嘘をついているのである。(クルアーン 10:66)
● その美名と完璧な属性はアッラーにのみ属し、いかなる欠陥からも免れているということ*。至高のアッラーはこう仰っています:(* これは「美名と属性のタウヒード」と呼ばれているもので、アッラーの美名と属性はかれにのみ帰されるべきものであり、そこにおいていかなるものもかれに匹敵したりはしないことを示しています。)
そしてアッラーにこそ美名が属するのであるから、それをもってかれに祈願するのだ。かれの美名をないがしろにするような輩は放っておくがいい。いずれ彼らは自分たちが行っていたところのもので報いを受けるだろうから。(クルアーン 7:180)
この証言の条件:
この証言はただ単に発声するだけでは、アッラーに受け入れられるものとなるに十分ではありません。それは天国の扉への鍵ではあっても、それを有効に作動させるためにある一定の溝を形作らなければならないのです。この証言がアッラーに受け入れられるものとなるための条件は、以下に示す通りです:
1. 知識
これは、アッラーを差し置いて崇拝されているあらゆる存在が、虚妄であることを知ることです。預言者や使徒、天使などであろうと、アッラー以外に真に崇められるべき存在はありません。礼拝(サラー)や祈願、犠牲や誓願など、あらゆる種類の崇拝行為はアッラーにのみ向けられなければならないのです。
ゆえに、何らかの崇拝行為をアッラー以外の何かに向けるという行為は、一種の不信仰なのです。これは例え証言の言葉を口にしていたとしても、関係ありません。
2. 確信
つまり二つの証言の意味を、心から確信することです。確信の反対は疑惑ですが、この信仰において疑惑やためらいなどがあってはなりません。至高のアッラーはこう仰いました:
信仰者というものはアッラーとその使徒を信仰し、その後(その信仰に)疑念を抱くことなく、財と生命をかけてアッラーの道に奮闘する者たちのことである。彼らこそは真に信仰する者たちである。(クルアーン 49:15)
3. 受容
証言の内容は完全に受け入れ、それを拒む気持ちがあったりするべきではありません*。 至高のアッラーはこう仰いました:
彼らは実に「アッラーの他に真に崇拝すべき何ものもなし」と言われれば、奢り高ぶったものだったのだ。 (クルアーン 37:35)(*ムスリムとなるには、証言の意味を理解して確信をもって信仰するだけでは十分ではありません。厳密にはそれを発声して受容し、ムスリムとなることを受け入れる必要があります。)
4. 服従
証言の内容が要求することに従い、それに沿って行動することです*。そしてアッラーが命じることを行い、かれが禁じることを回避しなければなりません。至高のアッラーはこう仰いました:(*ムスリムとなるには、証言の意味を理解して確信をもって信仰し、それを発声して受容し、ムスリムとなることを受け入れるだけでは十分ではありません。更にそれに則って行動する必要があるのです。)
そしてアッラーのみに真摯に向かって服従し、イフサーン*の徒である者は堅固な取っ手を握り締めた者。そして全ての物事の結末は、アッラーへと還り行く。(クルアーン 31:22)(* 「イフサーン」とは、語学的には何かをよい形で行う者を意味しますが、ここでは預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の手法に則ってアッラーゆえに真摯に善行を積む者の事を指しています。アッラーはここでかれへの服従と善行を並置させていますが、それらを実践する者は証言という「堅固な取っ手を握り締めた者」となるでしょう。)
5. 真摯さ
証言を口にするにあたって、真摯でなければなりません*。至高のアッラーはこう仰っています:(*上記の全ての条件を満たしていたとしても、心の内に不信仰を潜めていたとしたら、ちょうど偽善者のような状態になってしまいます。)
彼ら(アッラーの使徒の命に背いて出征しなかった者たち)はその舌で、心にもないことを語っている。(クルアーン 48:11)
6. 崇拝の誠実さ
つまり全ての崇拝行為を、アッラーのみに誠実に捧げることです*。至高のアッラーはこう仰いました:(* 上記の全ての条件を満たしていたとしても、死人に向かって何らかの願いを叶えてもらおうと祈ったりするなど、崇拝行為をアッラー以外の何かに向けていたら純粋なアッラーの崇拝を行っていることにはなりません。)
そして彼らは純正な宗教の徒として、彼らの宗教をアッラーのみに真摯に捧げて崇拝し、サラー(礼拝)を行い、ザカー(浄財)を施すことしか命じられてはいなかったのだ。(クルアーン 98:5)
7. 敬愛
この証言をする者は、それとそれが要求するもの全てを愛さなければなりません。つまりアッラーとその使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)、そしてその正しいしもべたちを愛し、彼らに敵対する者には敵対する必要があります。また例えそれが自分の私欲と一致しないことであっても、アッラーとその使徒への愛情を何よりも優先することが求められます。至高のアッラーはこう仰いました:
言え、「あなた方の父親や子息、兄弟姉妹や配偶者、近親やあなた方の稼いだ財産、またあなた方が不景気になることを恐れている商売や、あなた方の意に適った住まいがアッラーとその使徒、そしてその道における奮闘よりもあなた方にとって愛すべきものであるのならば、アッラーが事を決行されるまで待つがよい。アッラーは放縦な民をお導きにはなられないのだ。」(クルアーン 9:24)
またこの証言は、アッラーのみが法を定める権威を有するということを認めることにも繋がります。崇拝行為に関することであろうと、個人あるいは社会間における人間関係に関することであろうと、そこに違いはありません。
何かを合法としたり非合法としたりする権威は、アッラーにのみ属します。またその使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、いかなるアッラーの命令も隠蔽したりすることがありません。至高のアッラーはこう仰いました:
使徒が命じた物事を行い、彼の禁じた物事を避けよ。(クルアーン 59:7)
二番目の証言「ムハンマドはアッラーの使徒である」の意味
ムハンマドがアッラーの使徒であることを証言することで、以下に示すような事柄も義務付けられてきます:
1. 彼の使徒性を信じること
そして彼が最良かつ最後の使徒であり、彼以後には預言者も使徒も出現しないことを信じること。至高のアッラーはこう仰いました:
ムハンマドは(彼が授かった本当の彼の子でもない)あなた方の内の誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒であり、最後の預言者なのだ。(クルアーン 33:40)
2. 彼が無謬であること
但しこれは、彼がアッラーから伝達して教示するという行為においてのみのことです。至高のアッラーはこう仰いました:
そして彼は私欲から(物事を)話しているわけでもない。それは下された啓示以外の何ものでもない。(クルアーン 53:3-4)
一方現世的諸事に関しては、彼は単なる一人の人間に過ぎません。彼は自分の意見を持っていました。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)こう言っています:
「私は一人の人間に過ぎないが、あなた方は私に争いの調停を求める。そしてあなた方の内のある者は、他の者よりも論証において雄弁であり、それゆえに私は私が耳にした通りに(その者の都合のよい形で)裁いてしまうかもしれない。それで私がそのような者に対し、その同胞の何らかの権利を(不当に)得るような判決でもって裁いてしまったとしても、それを手にするのではない。というのも(そのような場合)私は、その者に地獄炎の一片を差し出しているに他ならないからである。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
3. 彼が全被造物に遣わされた使徒であることを信じること
そして最後の時まで、彼以外の使徒は現れません。至高のアッラーはこう仰いました:
そしてわれら(アッラーのこと)はあなたを、福音と警告を告げる者として人類全てに向けて遣わした。しかし多くの人々は知らないのだ。(クルアーン 34:28)
4. 彼の命に従うこと
また彼の伝えることを信じ、彼が禁じ警告することを回避すること。至高のアッラーはこう仰っています:
使徒が命じた物事を行い、彼の禁じた物事を避けよ。(クルアーン 59:7)
5. 預言者のスンナ*に従い、それを遵守すること
そしてそこにおいて新奇な物事を創出しないことです。至高のアッラーはこう仰いました:(*「スンナ」とは預言者ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)の示した手法や道のことです。)
言え、「あなた方がアッラーのことを愛しているのなら、私(ムハンマド)に従うのだ。そうすればアッラーはあなた方を愛して下さり、あなた方の罪をお赦し下さるであろう。」アッラーはお赦し深く、慈悲深いお方である。(クルアーン 3:31)
第二番目の基幹:サラー(礼拝)
礼拝(サラー)は宗教の要ゆえ、ムスリムはその実践を義務付けられます。サラー抜きにはイスラームは完全なものとはなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は宗教をラクダに例えて、こう言っています:
「宗教の頭はイスラーム(シャハーダ)であり、その背骨はサラーである。そしてその瘤の最も高い部分が、ジハード(アッラーの道にける奮闘)である。」(アッ=ティルミズィーの伝承)
サラーとは、「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)」という言葉によって開始され、「アッサラーム・アライクム・ワ・ラフマトゥッラー(あなた方にアッラーの平安とご慈悲あれ)」という祈願で締めくくられる、一定の言葉と行為から成立する崇拝行為です。
ムスリムはサラーをアッラーへの服従行為として行い、そしてそこにおいてかれを讃えます。ムスリムはサラーを通してその創造主との継続的関係を維持するのであり、現世的享楽に夢中になったり信仰心が弱くなったりした時に、サラーを思い起こさせるアザーン(サラーへの呼びかけ)が聞こえてくるのです。
ムスリムは昼夜に五回の義務の礼拝をします。男性は何らかの正当な理由がない限り、モスクで集団礼拝に参加します。ムスリムはサラーの場を通して互いに知り合い、相互の愛情と結束心を高めるのです。彼らはこうして日常的に、同胞の状況を知ることが出来ます。誰か姿の見えない者がいれば、病気になったのではと考え、彼の家を訪問することもあり得ます。またサラーにおいて何らかの不備があれば、周りの者が何らかのアドバイスを送ったりすることも出来ます。サラーにおいてムスリムは、社会階層などの社会的差異や人種、血統など関係なく、真っ直ぐな列を作って隣り合って立ちます。アッラーの御前で、彼らは皆一様に平等に服従するのです。
第三番目の基幹:義務の浄財(ザカー)
ザカーとは、比較的豊かなムスリムが貧しい者に物乞いの辱めを味わわせないようにするべく拠出する、ある一定額の財産のことです。これはある一定額の財産を有する全てのムスリムにとっての義務です。至高のアッラーはこう仰いました:
そして彼らは純正な宗教の徒として、彼らの宗教をアッラーのみに真摯に捧げて崇拝し、サラー(礼拝)を行い、ザカー(浄財)を施すことしか命じられてはいなかったのだ。そしてそれこそは正しい宗教なのである。(クルアーン 98:5)
ザカーの義務を否定する者は、弱者や貧者の権利を侵害すると見なされる上、不信仰に陥っていると判断されます。またザカーは、時々誤解されるようにイスラーム国家から課せられた税金のようなものではありません。もしそうだったら、ムスリムであるかそうでないかを問わずに徴収されるでしょう。ザカーはムスリムにとっての義務であり、非ムスリムはそれを拠出する義務を課せられてはいません。
尚、ザカーが義務付けられる条件には以下のようなものがあります:
- 最低限の財産を所有していること:つまりその財産が、イスラーム法によって定められたある一定の額や量に達していなければなりません。
- その財産を一年間通して所有すること:もしこの期間内にその財産が所有下から外れた場合、ザカーはかかりません。
またアッラーは、ザカーを受給する資格のある者たちについても明確にしています。至高のアッラーはこう仰いました:
ザカーは貧者と困窮者、ザカー(の徴収)に携わる者、(それによって)心に親愛が生まれそうな者、奴隷の解放、債務に苦しむ者、アッラーの道にある者、そして旅人に与えられる。(それは)アッラーからの義務である。アッラーは全てをご存知で、かつ英知溢れるお方(クルアーン 9:60)
一定の規準額に達した財産で連続一年間所有下にあったものは、その年にその額の 2.5%を支払わなくてはなりません。イスラームはこれによってムスリム社会からの貧困の根絶を狙っているのであり、また窃盗や殺人や他人の名誉の侵害など、貧困に伴う様々な危険を防止するのです。またザカーは貧者の必要を叶えることにより、ムスリム社会における相互扶助や同胞愛の精神をも育むのです。
ザカーと税金の違いの一つは、ザカーがムスリムによって自発的かつ自らの意に沿って支払われるということです。ザカーの支払いは各自に任されているのです。また「ザカー」というアラビア語が元来有する意味*の通り、その究極的な目的は豊かなムスリムの魂の浄化とされています。またそれは人の心から吝嗇や自己中心性、貪欲さやこの刹那的な現世への固執、欲望の溺愛など、窮状にある同胞を忘れ去らせるような全ての要素を取り除いてくれるのです。至高のアッラーはこう仰っています:(*「ザカー」というアラビア語には、清浄にするという意味もあります。)
そして自らの吝嗇さから身を慎む者こそは、真に成功する者である。(クルアーン 59:9)
そしてまたザカーは貧者の心も、富者に向けられる憎悪や嫉妬などの感情から浄化してくれます。彼らは豊かな者たちがアッラーの命に従って財産を施し、喜捨や善行などによって継続的に彼らに配慮を払うのを目にするのです。
イスラームはザカーの支払いを拒む者に、非常に厳しい警告を与えています。至高のアッラーはこう仰いました:
そしてアッラーの恩恵によって授けられた物において吝嗇する者たちが、得をしているなどと考えてはならない。実にそれは損失なのだ。彼らの吝嗇していたものは審判の日、彼らに巻きつけられるであろう。(クルアーン 3:180)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「もし金銀を有する者が彼に課せられた物を施さないのなら、審判の日には彼のために炎の延べ板がこしらえられよう。そしてそれは地獄の業火の中で熱されてから、彼の脇腹や額や背中に押し付けられるのだ。そしてそれが冷えてくると、また同じことが最初から繰り返される。それは一日の間継続するが、その一日は五万年に相当するのだ。そしてしもべたちに判決が宣告された時、彼は自分を天国、あるいは地獄へと続く道を見出すのである。」(ムスリムの伝承)
第四番目の基幹:ラマダーン月の斎戒(サウム)
ムスリムは一年に一度のラマダーン月(ヒジュラ暦九月)に、一ヶ月間のサウムをします。そしてその間は最初の夜明けから日没まで、飲食や性交渉などのサウムを無効にする行動を慎むのです。実のところサウムはイスラームによって初めて紹介されたものではなく、それ以前の宗教においても定められていました。至高のアッラーはこう仰っています:
信仰する者たちよ、あなた方以前の者たちにも定められたように、あなた方にもサウムが課せられた。(それによって)あなた方は敬神の念を獲得するであろう。(クルアーン 2:183)
サウムの目的は、単にサウムを無効にする物質的・精神的物事を回避するだけではありません。実際のところムスリムはサウムしている間、嘘や陰口、噂話の触れ回りや詐欺、下品な言行やその他諸々の有害な振る舞いなど、その報奨を減じるような目に見えないあらゆる物事を放棄しなければならないのです。そしてサウムする者はこれらの有害な行為がラマダーン月以外の時期にも放棄すべきことを肝に念じ、特にラマダーン月においてそう努めなければならないことを念頭に置かなければなりません。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言っています:
「アッラーは虚言とそれによる行いを放棄しない者が飲食を断つことなど、お求めにもならない。」(アル=ブハーリーの伝承)
またサウムは、魂と欲望の間の戦いでもあります。そしてアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)が次のように言っている通り、そこには多くの社会的利益も含まれています:
「アダムの子(人間)の全ての行いは、その十倍から七百倍の善行として倍増させられる。偉大かつ荘厳なるアッラーは仰った:“但しサウムは別である。それはわれのためのものであり、われはそれに(特別な)報奨を授ける。(というのもサウムする者は)われゆえにその欲望と食事を放棄したからである。”そしてサウムするものには二つの喜びがある:サウムを解く時の喜びと、主と謁見した時の(特別なご褒美に対する)喜びである。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
サウムを通して、人は十分な食事や衣服や住居を所有しない貧しい同胞の気持ちを理解します。そしてこのことが人を、彼らへの義務を果たし、彼らの必要や状況に常に注意を払うことへと促すのです。
第五番目の基幹:ハッジ(マッカ巡礼)
ハッジとは、ある特定の時期と場所において特定の儀式を行うために、聖なるアッラーの館(マッカのカアバ神殿)へと巡礼することです。この基幹は正常な理性を備えた全ムスリム成年男女に課されますが、身体的・経済的にそれを遂行するに十分な能力を有していることが条件になります。
それでもし十分な経済的能力があっても回復の見込みが薄い病気を患っているような場合は、誰か他の者にハッジの代理を依頼しなければなりません。そしてもし自分自身、あるいは自分が扶養する者たちを毎日賄う以上の経済的余裕がないような者には、そもそもハッジの義務は課されません。至高のアッラーはこう仰いました:
そしてそうすることが出来る人々には、その館を訪問するアッラーへの義務がある。それを否定する者があっても、実にアッラーは何ものをも必要とされてはいないのだ。(クルアーン 3:96-97)
ハッジは、イスラームにおける最大の集合の場です。世界中のムスリムが同時期に一つの場所に集結し、同じ主を呼び、同じ衣服をまとい、同じ儀式を行い、以下のような同じ賛美の言葉を唱えて声を上げるのです。
「ラッバイカッラーフンマ・ラッバイカ、ラッバイカ・ラー・シャリーカ・ラカ・ラッバイカ、インナル・ハムダ・ワン・ニゥマタ・ラカ・ワル・ムルク、ラー・シャリーカ・ラカ」
この意味は以下の通りです:
「アッラーよ、あなたの御許に馳せ参じました。あなたの御許に馳せ参じました。あなたの御許に馳せ参じました、あなたに並ぶものはありません。あなたの御許に馳せ参じました。
称賛と恩恵と主権は、並ぶものなきあなたにこそ属します。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
ここに貧富や貴賎、肌の色の差やアラブ人であるかそうでないかなどの差はありません。皆アッラーの御前に等しいのです。人には敬虔さ以外に何の相違もありません。ハッジは全ムスリムの同胞愛と、その希望と感情の結束が強調される、一大イベントなのです。
イスラームの政治的側面
イスラーム法は、その上にイスラーム国家が成立する基礎として作用するところの、政治的諸事における基本原理と一般法を提示しています。そしてイスラーム国家の統治者は、アッラーの命を遂行し、実践するのです。至高のアッラーはこう仰いました:
一体彼らは、ジャーヒリーヤ(イスラーム以前の無明時代)の裁決を望むというのか?(アッラーを)確信する者にとっては、裁決においてかれに優るものなどいないというのに。(クルアーン 5:50)
イスラーム国家の統治者は事実上、イスラーム共同体の代表者です。彼には以下に挙げるような物事が義務付けられます:
[1]
アッラーの法を実践するためにあらゆる能力を駆使し、宗教と平和、生命と富を護るべく、その共同体に立派で高貴な生活を提供すること。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「アッラーがある者の後見を命じられたにも関わらず、その者に十分な忠言を施さなかったしもべは、アッラーによって天国の芳香を禁じられよう。」(アル=ブハーリーの伝承)
またイスラーム国家の統治者は、ある種の資質を備えていなければなりません。それは第二代カリフのウマル・ブン・アル=ハッターブがその同志たちに言った、以下の言葉の中に描写されているようなものです:
「私が従事するムスリムの諸事の特定の仕事に関する世話をさせるにあたって、私が任命すべき者の名を挙げよ。」彼らはこう応えました:「アブドゥッラフマーン・ブン・アウフがよいのでは?」ウマルは言いました:「彼は弱い。」彼らは別の者の名を挙げましたが、ウマルは彼に関してはこう言いました:「彼は私に必要ない。」それで彼らは尋ねました:「どのようなタイプの者がよいのですか?」ウマルは答えました:「リーダーになったら人々と同じように振る舞い、リーダーでなかったとしても以前と同様のままであるような者がよいのだ。」すると彼らは言いました:「アッ=ラビーウ・ブン・アル=ハーリス以外にそれに相応しい者はいません。」ウマルは言いました:「その通りだ。」そしてウマルは彼を任命しました。
[2]
統治者はムスリムの諸事において、その地位や仕事に相応しくないような者を任命すべきではありません。また彼はある特定の地位に、真に相応しい候補者を差し置いて自分の友人や親戚などを就かせてもなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:
「アッラーが人々の後見を命じられたにも関わらず、その者たちを欺いたまま他界したしもべは、アッラーによって天国を禁じられよう。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
上記の法や原理には、以下のような特徴があります:
● アッラーによって定められた神聖なるものであり、そこにおいては統治者も臣民も、富者も貧者も、高貴な者もそうでない者も、肌の白い者も黒い者も平等であるということ。いかなる高い地位にある者といえども、アッラーの法を犯すことは許されないのです。至高のアッラーはこう仰いました:
そしてアッラーとその使徒が何らかの裁断を下したならば、それが男女の信仰者にとって彼らの諸事における最良のものとならないことはない。そしてアッラーとその使徒に逆らう者は、明白に道を踏み誤っているのである。(クルアーン 33:36)
● 統治者も臣民も全ての者が、これらの法と原則を遵守し、尊重し、履行しなければならないこと。至高のアッラーはこう仰いました:
実に信仰者というものは、彼らの間に裁決を下すためにアッラーとその使徒から召喚されたならば、「かしこまりました。従います。」と言うべきなのだ。そして彼らこそは成功者なのである。(クルアーン 24:51)
イスラームにおいては、絶対権力者というものは存在しません。統治者もまたイスラーム法によって定められた制限によって、その権力を限定されています。もし彼がイスラーム法に反するような場合、臣民は彼に服従せず、真理に服従しなければなりません。
アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「ムスリムは好むことであろうと厭うことであろうと、(統治者の言うことを)よく聞き入れ、服従しなければならない。但し彼からアッラーの命に背くことを命じられた場合は、その限りではない。ゆえにアッラーの命に背くことを命じられたら、それを聞き入れ、服従することはない。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
● イスラームの政治システムは、協議の上に成立しています。至高のアッラーはこう仰いました:
そして彼らの主(の呼びかけ)に応じ、サラー(礼拝)を行い、彼らの間の諸事を協議でもって取り決め、またわれら(アッラーのこと)が授けたものから施す者たち。(クルアーン 42:38)
またアッラーはこのようにも仰っています:
そしてあなたが彼らに対して優しくしたのは、まさにアッラーからのご慈悲ゆえであった。もしあなたがぞんざいで頑なであったなら、彼らはあなたのもとから離散してしまったことであろう。ゆえに彼らを赦し、彼らのために罪の赦しを乞え。そして諸事において彼らに相談するのだ。(クルアーン 3:159)
上記の最初のクルアーンの節では、アッラーは協議をイスラームの背骨とも言えるサラーに併置させて言及しています。これは、共同体における全ての諸事において協議することの重要性を示していると言えるでしょう。それらの諸事においては、知識を備えた人々との協議によって決定を下さなければなりません。また節の最後の部分でアッラーは信仰者を称えていますが、これは信仰者があらゆる物事において互いに相談し合うからなのです。
また二番目の節でアッラーは、共同体の長であるその使徒に、共同体の共益に関わる物事においてその教友たちと協議することを命じています。但しそれはそのことに関しての明白な法規定が存在しない限りにおいてであり、もしイスラーム法によって既に定められていることであれば、そのことに関しての協議はあり得ません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「相談し合う民が、最良の道に導かれないということはないのだ。」そして彼は次のクルアーンの句を唱えました:彼らの間の諸事を協議でもって取り決め…(アル=ブハーリーの伝承)
あるイスラーム学者たちは、人々の利益に関連する物事に関し、統治者は彼らと相談しなければならない、と言明しています。もし統治者がそれを怠った場合、人々は彼らの意見を表明する機会を要求することが出来ます。これは既述のクルアーンの節に基づいた理解であり、またイスラームという教えが統治者を、彼に委ねられた諸事を遂行する責任を負う代理人と見なしているからです。こうして臣民は、統治者がイスラーム法を忠実に履行しているかどうかを監視することを求められます。またイスラームはその原則に沿った形であることを条件に、全人がその意見を述べ、適切な手法において批判する自由を与えています。しかしそのことが混乱や分裂の原因となるようであってはなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「実に最善のジハードは不正を行う権力者への正義の言葉である。」(アブー・ダーウードとイブン・マージャの伝承)
また初代カリフのアブー・バクルはその地位に任命された時、人々にこう語りかけました:
「人々よ!私はあなた方の内最善の者ではないにも関わらず、あなた方の統治者に任命された。それで私が真理と共にあるのなら、私を援助して欲しい。しかし私が誤っているのを見出したら、私を正してくれ。あなた方の諸事に携わるにあたり、私がアッラーに従っている限りにおいて、私に従うのだ。そしてもし私がアッラーに従ってはいないのなら、私はあなた方に私への服従を求めない。」
また二代目カリフのウマルはある日説教壇の上に立ち、人々に向かってこう言いました:
「人々よ、もし私が腐敗するようなことがあったら、私を正してくれ。」するとあるベドウィンの男が立ち上がって、こう言いました:「アッラーにかけて!あなたが道を誤ったら、我々は剣をもってあなたを正そう。」しかしウマルは立腹もしなければ、彼に対して敵意を抱きもしませんでした。彼はただ両手を中空に上げて、こう言ったのです:「ウマルの誤りを正すことの出来る者をこの共同体の中に授けて下さったアッラーに、全ての賞賛あれ!」
また統治者が釈明の場に召喚され、尋問を受ける場合さえもあります。ある日ウマルは衣服を二枚まといつつ、人々に語りかけていました。しかし、彼が「人々よ!私の言うことを聞き、従うのだ」といった時、一人の男が立ち上がってこう言いました:「私たちはあなたの言うことを聞きもしなければ、従いもしない。」ウマルは言いました:「何故だ?」男は答えました:「あなたは私たちに衣服を一枚しか配給しないのに、自分は二枚着ているではないか?」ウマルは即座に(息子アブドゥッラーに)大声でこう呼びかけました:「アブドゥッラー・ブン・ウマルよ、言ってやれ!」それでアブドゥッラーは言いました:「私は自分の分を父親にくれたのです。」すると男は言いました:「それでは私たちはあなたの言うことを聞き、従いましょう。」
このようにイスラームは、社会と個人の諸権利と自由を保護しています。また法源を個人的・地理的・環境的要因などから変更しようとする、統治者の出来心や私欲から守るのです。イスラーム法は政体の仔細については、議論していません。これはムスリムがある特定の状況下において最も相応しい法や規則を適用し、また特定の時期と場所において最大限の福利を達成することが出来る余裕を設けておくためなのです。但しいかなる場合においても、法や規則がイスラームの原理や基礎と矛盾してはなりません。
イスラームの経済的側面
富は生活が維持されるための基礎であり、活力です。そしてイスラーム法は、社会正義と尊厳に満ちた生活が達成された、バランスの取れた社会形成をその目標としています。 至高のアッラーはこう仰いました:
財産と子孫は現世の生活における装飾である。 (クルアーン 18:46)
イスラームは、財産が社会の存続において掛け替えのない役割を担っていることから、豊かな者にザカー(義務の浄財)の拠出を命じています。それは太陰暦の一年間を通してある一定額の財産を所有した者に課され、その全体額の 2.5%を施すことを求められます。ザカーは貧者の権利であり、ザカーを課された者がその拠出を拒否することは禁じられています。尚、ザカーは貧者など特定の対象に分配されます。
しかしイスラームが個人所有権や商売を禁じているわけではなく、むしろそれらは容認され尊重されています。他人の財産や所有物の侵害を禁じることを明白に禁じる法典拠は、非常に沢山存在しています。至高のアッラーはこう仰っています:
そしてあなた方の財産を、不正に貪り合ってはならない。(クルアーン 2:188)
イスラームは社会に属する全ての個人が尊厳に溢れた人生を送ることが出来るよう、その目的達成を保障する法と規則を制定しました。その一部を挙げていってみましょう:
1.
イスラームは利子を禁じます。というのもそれは他人の搾取と、その財産の不当な入手につながるからです。イスラームは財産と所有物を、侵害してはならないものとしました。また利子はいたわりの放棄と、少数の者に富が集中することにもつながります。 至高のアッラーはこう仰いました:
信仰者よ、あなた方が信仰者であるというのならアッラー(のお怒りや懲罰の原因となること)から身を慎み、まだ残っている利子を完全に放棄するのだ。そしてそうしないというのなら、アッラーとその使徒との戦いを覚悟せよ。もし悔悟するのなら、あなた方には元金を手にする権利がある。あなた方は(貸す際には)不正を働くこともなく、(借りる場合には)不正を被ることもないのだ。(クルアーン 2:278-279)
2.
イスラームは、それを必要としている者に貸与することを励行しています。また債務を果たせない苦境にある者の返済時期を延期してやることも、推奨しています。債務を返済しようとしている者に荒々しい態度をとることも、厭われるべき行いです。但し債務を果たす能力があるにも関わらずそうしない者は別で、そのような者にはある手段が講じられる必要があります。至高のアッラーはこう仰いました:
そしてもし(債務者が)厳しい状況にあったら、状況が改善するまで猶予を与えてやるのだ。(クルアーン 2:280)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「(経済的に)厳しい境遇にある者(の債務返済)に猶予を与えてやる者は、(彼が返済するその時まで)毎日施しをしている(に等しい)。そして債務期限後もそのような者に猶予を与えてやる者には、毎日(その債務額と)同様の施しをしていると見なされる。」(イブン・マージャの伝承)
3.
イスラームは債務の返済に非常な困難を見出す者に対し、それを免除してやることを励行しています。至高のアッラーはこう仰いました:
そしてもし(債務者が)厳しい状況にあったら、状況が改善するまで猶予を与えてやるのだ。しかしもし(債務を)施して(免除して)やるのなら、それがあなた方にとって最善であろう。もしあなた方がこのことを知っていたのなら。(クルアーン 2:280)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこうも言っています:
「アッラーが審判の日の苦悩から救ってくれることを望む者は、(経済的に)厳しい境遇にある者(の債務返済)に猶予を与えてやるか、あるいはそれを免除してやるのだ。」(ムスリムの伝承)
4.
いかなる種類であれ、必需品を独占したり他人を害するような形での買いだめをしたりすることは、禁じられています。例えば人々が必要とするある商品を供給量が減少するまで貯蔵し、値段を吊り上げてから売却する、といったようなやり方です。このようなやり方は社会にとっても個人にとっても、富者にとっても貧者にとっても有害なものとなります。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:
「独占する者は罪深い者である。」(ムスリムの伝承)
またイスラーム四大法学派の祖の一人アブー・ハニーファの高弟アブー・ユースフは、こう言っています:
「公益にとって有害な形のあらゆる買いだめは、例えそれが金銀であろうと、独占の内の禁じられた種類のものと見なされる。人々にとっての必需品を独占する者は、明らかにその所有物への対処法を誤っているのである。独占が禁じられたのは人々を害悪から保護するためであるが、人々には様々な種類の需要があり、そこにおいて独占は彼らに困難をもたらすのである。」
統治者は必需品を買いだめしている者を強制し、売り手にとっても買い手にとっても損失とならないような適切な利潤のもとに、それらを売却させることも出来ます。そしてもし独占者が提示された値段での売却を拒否するのであれば、必需品の独占によって人々を搾取している恐れの強い者を阻止するため、統治者は彼のそれらに対する所有権を無視して適切な値段で売却することが出来ます。
5.
イスラームは国内で商品を売却したり、あるいは輸入したりするために商人に税金を課すことを禁じています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「税金を徴収する者は天国に入らない。」(アフマドとアブー・ダーウードの伝承)
この類の税金は財産の不当入手であり、財産をそれに値しない者へと贈与することを意味します。このような事柄‐つまり税金の徴収やその事務、その証言や入手など‐に関わる者は全て、預言者による次の警告の対象となるでしょう:
「非合法な物によって生育した血肉は天国に入ることはない。(それらには)むしろ地獄の業火がよりふさわしいのだ。」(アッ=ティルミズィーの伝承)
6.
イスラームは本来アッラーに属するものである財産を無闇に蓄積し、それを社会と個人に有益な形で施さないことを禁じています。富は社会を循環して経済を刺激するべきであり、そうすることによって社会内の全個人に利益が還元されるのです。至高のアッラーはこう仰いました:
そして金銀を貯め込み、それをアッラーの道において施すことのない者たちには痛ましい懲罰の知らせを伝えよ。(クルアーン 9:34)
イスラームは個人所有権を尊重する一方で、そこにおける義務と権利を定めています。そして所有者に関する義務の一つとして、自分自身と扶養家族や親戚、管理すべき各種の物への配慮が挙げられます。そして社会内の個人に対する義務としては、ザカー(義務の浄財)の拠出や任意的な慈善的施し、他人への援助などが挙げられます。また社会全体に対する義務としては、学校や病院、孤児院やモスクなど、社会的に有益な施設の建設などがあるでしょう。これらのことから結果付けられるのは、富が社会内の少数の者たちの手にのみ集中することがない、ということです。
7.
イスラームは取引に関する計量や計測などにおいて、ごまかすことを禁じています。というのもそれは詐欺であり、一種の盗みであるからです。至高のアッラーはこう仰いました:
秤を(不当に)減らす者たちに災いあれ。彼らは人に量らせる時にはしっかりと(正当な)取り分を求めるくせに、自らが彼らのために量る時には(それらを少なめに見積もって)損失を与える(クルアーン 83:1-3)
8.
イスラームは誰にも属していない水や牧草など、公共の所有物を占有すること、及びその利用を阻止することを禁じます。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:
「審判の日にアッラーからお言葉もかけられなければ、お目もかけて頂けない三人の者:自分が買ったよりも高い値段で商品を売るために、嘘の誓いをする者。(神聖なる)アスル(午後遅い時刻)後、ムスリムの財産を不当に入手するために虚偽の誓いをする者。そして余分な水を他人に分けてやらない者。その日アッラーはその者に言うだろう:“今日われはあなたが自分で造ったものでもない余分な水を与えなかったように、あなたに対するわが恩恵をあなたに与えまい。”」(アル=ブハーリーの伝承)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、このようにも言っています:
「ムスリムは三つのものにおいて共同(所有)する:(それらはつまり)牧草と水と、火である。」(アフマドの伝承)
9.
イスラームは老若男女を問わず、人の財産を適切な相続人に分配する公正な遺産相続法を提示しています。イスラームにおいては誰も、その相続法以外のやり方で遺産相続する権利はありません。イスラーム遺産相続法における一つの長所は、遺産がいかに莫大なものであったとしてもそれを細かく分割し、それがある一定の集団の手元にだけ集中することを回避していることでしょう。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「アッラーは全ての権利の主に、その権利を与えられたのである。ゆえに法定遺産相続人には遺言(による遺産の配分)はない。」(アブー・ダーウードの伝承)
10.
イスラームは財産の寄与を定めていますが、それは二種類に分けられます:
① 私的な財産寄与:寄与者の家族や子供に限定されたもので、彼らを貧困や物乞いすることから保護するためのものです。これが有効なものとなるには、寄与者が他界した後にもそれが慈善的分野で有益なものとなる必要があります。
② 公的な財産寄与:病院や学校、道路や図書館、モスクや孤児や老人のための福祉施設など、公益に奉仕するあらゆる形での慈善目的の維持に利用されるものです。
11.
イスラームは遺言による遺譲を合法化しています。あらゆるムスリムには、その死後に自らの財産の一部を正当な目的のために遺譲する権利があります。但し遺譲出来る財産額はその遺産相続人を害しない程度に、総遺産額の三分の一までに限定されています。教友アーミル・ブン・サアドはこう言っています:
「預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は私がマッカで病の床にある時、私を頻繁に見舞ってくれていました。私は言いました:“私には財産があります。その全てを遺言で施しましょう。”すると彼は言いました:“いや(、そうするのではない)。”それで私は言いました:“それではその半分を(施しましょう)。”彼は言いました:“いや。”私は言いました:“それでは三分の一を。”彼は言いました:“三分の一でも多い。あなたの遺産相続人が他人のものを乞うような貧しい状態にしておくよりは、裕福にしておく方がよいのだ。そして妻の口元に運ぶ一匙(の飲食物)であろうと、あなたが(扶養する者に)費やす物は何であれ施しとなるのである。(そうすれば)アッラーはあなたの位階を高められ、人々があなたから利益を享受する一方、また(私たちに敵対する)別の者たちは弊害を被ることになるかもしれない。”」(アル=ブハーリーの伝承)
12.
イスラームは、 信仰者たちよ、あなた方の間であなた方の財産を不当に貪ってはならない。(クルアーン 4:29)というアッラーの言葉に当てはまるような、いかなる形の行為も禁じています。
これは以下のような物事を含んでいます:
① あらゆる権利の横領
それは他人への悪行であり、社会に腐敗を広めます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:
「“(嘘の)誓いでもってムスリムの権利を得る者には、アッラーが地獄の業火を定め、そして天国を禁じられよう。”するとある者が彼に言いました:“アッラーの使徒よ、それが僅かな物であったらどうですか?”(預言者は)言いました:“例えそれがアラーク45の枝一本であっても、である。”」(ムスリムの伝承)
② 窃盗
アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:
「姦淫を犯す者は、真の信仰者である状態の時に姦淫する事はない。また盗人は真の信仰者である状態の時に盗みを犯すことはない。また真の信仰者である時に、人が飲酒することはない。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
窃盗は他人の財産を不当に奪うことです。至高のアッラーはこう仰いました:
男女の窃盗犯は、彼らが成したことの報いゆえ、そしてアッラーの懲罰ゆえ、その手を切断するのだ。アッラーは威光高く、この上なく英知溢れるお方。(クルアーン 5:38‐39)
一方窃盗犯の手首の切断刑は懲罰の意味で非常に厳しいものですが、その実施には以下の条件を満たしていなければなりません。
- 盗難品がその所有者の管理下と保護下にあったこと。
- 窃盗犯の意図が飲食や衣服などの必要からではなかったということ。このような場合においては第二代目カリフのウマルの裁決に倣い、刑は執行されません。
- 盗難品の価値が、刑罰が適用される最低額に達していること。
ある種の学者は、窃盗犯の悔悟はその品物を本来の所有者に返却するまでは受け入れられないと言明しています。そしてもし盗難物が彼の手元にはない場合、所有者は彼を赦免するかどうか訊ねられます。尚、もし窃盗犯がその事例が法廷に持ち込まれる前に所有者によって赦免された場合、刑罰の執行はなくなります。
③ 詐欺
預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:
「私たちに武器を向ける者は、私たちの内の者ではない。また私たちを騙す者も、私たちの内の者ではない。」(ムスリムの伝承)
④賄賂
至高のアッラーはこう仰っています:
そしてあなた方の財産を、不正に貪り合ってはならない。またそれと知りながら罪深くも他人の財の一部を奪おうとして、裁判官に賄賂を贈ったり偽りの証言を立てたりしてもならない。(クルアーン 2:188)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「裁決に関し、賄賂を贈る者と収賄者にアッラーの呪いあれ。」(アッ=ティルミズィーの伝承)
アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)がこう言ったのは、賄賂を贈る者が社会に悪を広めるからでしょう。また収賄者も共に言及されているのは、その行為が不当なものであり、その者が彼に委任された信託において違反しているからでしょう。というのもその者は本来彼が当然行うべき仕事において、不当な金銭を受領しているからです。
イスラームは特に許可されていない限り、客に何かを売ろうとしているところに第三者が割り込み、その取引をご破算にして自らとの取引を結ばせる、というような行為を禁じています。このような行為は、社会の個人間に敵意と憎悪を掻き立ててしまいます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「その同胞が取引している最中の売買に割り込んで売買を行ってはならない。また同胞が既に婚約の申し込みをしている女性に婚約の申し込みをしてもいけない。但しその者が彼に対して婚約の申し込みをすることを許可した場合は、その限りではない。」(ムスリムの伝承)
『イスラームのメッセージ』アブドゥッラフマーン・アッ=シーハ著より