『イスラームのメッセージ』最も慈悲遍く、慈悲深きアッラーの御名において【1】

『イスラームのメッセージ』最も慈悲遍く、慈悲深きアッラーの御名において【1】
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はじめに

最も慈悲遍く、慈悲深きアッラーの御名において

全ての賞賛は、万有の主であるアッラー*にこそあり。そしてかれがその使徒ムハンマドとその系譜を称揚され、平安を与えて下さいますよう。*「アッラー」とは、イスラーム教の他ユダヤ教やキリスト教などの天啓宗教においても奉じられている、全宇宙の創造主、絶対的な威力と権威と共に至上の慈悲と寛容さを備えた唯一神のことです。

アッラーはイスラームの啓典の中で、こう仰いました:

言え、「啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)よ、私たちとあなた方との間の正義の言葉へとやって来るのだ。(その言葉とは:)私たちがアッラー以外の何ものをも崇拝せず、かれに何ものをも並べたりしないこと。そしてアッラーを差し置いて、自分たちの内の誰かを主としたりしないこと。」それでもし彼らが(この期に及んでその言葉から)背くのなら、こう言うのだ:「あなた方は、私たちがムスリム(主に対して真に服従する者)であると証言せよ。」(クルアーン 3:64)

イスラームは人が生まれもって備えている天性にそぐう教えです。またイスラームはムスリム(イスラームの教えを受け入れた者)に対し、不可解なことがあればその権威や知識を備えた者に質問することを命じています。イスラームの教えには曖昧さや不可解さというものがなく、あらゆる物事に関して問いかけることが許されているのです。アッラーはこう仰っています:

もし知らないというのなら、(知識を備えた)啓典の民に訊ねてみるがよい。(クルアーン 16:43)

ごく自然なことながら、人間はその意識の中に数多くの疑問を抱えています。そしてそれらの疑問に対して論理的かつ明瞭な回答を求めているのですが、クルアーン(コーラン)こそはそのような疑問に回答を与えてくれるのです。それではいくつかの疑問を、以下に挙げていってみましょう:

1. 人類の原初は?

その回答は、アッラーの御言葉(クルアーン)の中に見出すことが出来ます:

そしてわれら(アッラーのこと)は人間(アダム)を、泥土の抽出物から創造した。それから(アダムとその子孫の)精子を堅固な置き場所(卵巣)に設え、そして精子から凝血を、また凝血から肉塊を、肉塊から骨を造り、そして骨の上に肉をかぶせた。それからわれらは、また別の創造を完成させたのである。偉大なるアッラー、最善の造形者よ。(クルアーン 23:12-14)

2. 宇宙における人類の地位は?

アッラーはこのことについて、こう仰っています:

そしてわれら(アッラーのこと)はアダムの子ら(人類のこと)を高貴な存在とし、陸に海に彼らを運んだ。また彼らによき物を糧として授け、われらが創造したあらゆるものの上に位置づけたのだ。(クルアーン 17:70)

3. アッラーは何故人類を創造したのか?

この問題に関し、アッラーはこう仰っています:

そしてわれ(アッラーのこと)はジン(精霊的存在)と人間を、われを崇拝させるべくして創造したのだ。われはあなた方からの糧も欲しなければ、あなた方がわれに食を与えることも望んではいない。実にアッラーこそがこの上ない御力を備えられ、(万有に)糧を授けられるお方なのであるのだ。(クルアーン 51:56-58)

またアッラーはこのようにも仰っています:

一体あなた方は、われら(アッラーのこと)があなた方をいたずらに創ったとでも思っているのか?そしてあなた方が(現世での行いの清算のために)わが御許に戻って来ないとでも?しかしアッラーはこの上なく崇高なるお方、真の王であられる。偉大なる玉座の主であるかれの他に、真に崇拝に値する何ものもないのだ。(クルアーン 23:115-116)

4. 創造者は誰か?

創造主はアッラーであり、かれのみが唯一崇拝に値するお方です。アッラーはこう仰っています:

かれこそはアッラー、かれ以外に崇拝すべきものは存在しない。(かれこそは)真の王。この上なく神聖なるお方。最も平安なるお方。最も平安を与えられるお方。最もよく監視されるお方。最も偉大なるお方。全てを従えられ、最も高遠なるお方。かれは彼ら(不信仰者)がかれに並べて配しているものなどからは無縁な、この上なく崇高なるお方である。かれこそはアッラー。(かれこそは)創始者であり、造物主であり、造形主。かれにこそ美名は属する。天地にあるものは全てかれの崇高さを讃えるのだ。そしてかれはこの上なく偉大で、英知溢れたお方であられる。(クルアーン 59:22-24)

5. アッラーがこの宇宙に創造したものに対して、私たちはいかに対応するべきか?

この問いに対し、至高のアッラーはこう仰っています:

信仰する者たちよ、われら(アッラーのこと)があなた方に与えたよきものを食べよ。そしてあなた方が本当にかれ(アッラー)を崇拝するのなら、かれに感謝せよ。(クルアーン 2:172)

6. 人が受け入れるべき真の宗教とは?そして死後、幸福へと導いてくれる道は?

アッラーはクルアーンの中で、こう仰いました:

そしてイスラーム以外のものを宗教として望む者は、決してそれを受け入れられない。そして彼は来世においては損失者の類いなのである。(クルアーン 3:85)

7. 心の平安と精神の安らぎへと導いてくれるものとは?

この問題に関し、至高のアッラーはこう仰います:

信仰し、その心がアッラーのズィクル(唱念)で平穏である者たち。アッラーのズィクルによって心が平穏にならないことがあろうか。(クルアーン 13:28)

8. アッラーとその啓示を信仰しないことの結末は?

至高のアッラーはこう仰っています:

そしてわれの訓戒から背き去る者には、実に苦しい生活があろう。そして更に、われら(アッラーのこと)は審判の日に彼を盲目にして蘇らせよう。(クルアーン 20:124)

9. この世における私たちの行き先とは?

至高のアッラーはこう仰っています:

全ての魂は死を味わう。そして審判の日にこそ、あなた方はあなた方の(現世での行いに対する)報酬を全うするのだ。ゆえに地獄の業火から救われ、天国に入れられた者こそが真の勝利者なのである。実に現世での生活は偽りの享楽に過ぎない。(クルアーン 3:185)

10. 私たちが死後蘇ることなどあるのか?

この問いに対し、至高のアッラーはこう仰います:

そして(不信仰者は)自らの創造のことを忘れて、われら(アッラーのこと)に向かって(死後の復活を否定する)譬え話をしてこう言う:「朽ち果てた骨を誰が生き返らせるというのか?」言え、「それを最初に創造されたお方が、(また)それに生をお与えになるのだ。かれは全ての創造についてご存知であられる。」(クルアーン 36:78-79)

またアッラーはこのようにも仰っています:

人々よ、もし復活を疑っているというのなら(考えてみよ)、実にわれら(アッラーのこと)はあなた方(の祖アダム)を土塊から創造したのだ。そして(アダムとその子孫の)精子から凝血を、また凝血から肉塊を造るが、(その肉塊は)完成することもあればそうはならないこともある。(これらは全て)われらがあなた方に(われらの威力を)明白に示すがためのもの。またわれらは(その肉塊を)、われらが望む一定の期限が来るまで子宮に据え、それから子供として(胎内に)出す。(クルアーン 22:5)

11. 死後何が起こるのか?

至高のアッラーはこう仰いました:

啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)と多神教徒たちの内で(真実を)隠蔽し認めない者たちは、地獄の業火に永遠に留まることになる。彼らこそは創造物の内でも最悪の者たちなのだ。そして信仰し善行に勤める者たちこそは、創造物の内でも最善の者たちである。彼らのその主の御許での報奨はその下を河川の流れるエデンの園であり、そこに永遠に暮らすのだ。アッラーは彼らにご満悦であり、彼らもまたかれに満悦する。これこそ(現世で)その主を畏れていた者の報いなのだ。(クルアーン 98:6-8)

親愛なる読者各位へ。イスラームは、現代世界が直面しているあらゆる問題に解決策を提示している教えです。世界はいくつかの大きな問題を解決すべく様々な主義学説を適用してきましたが、それらは単にその不適応性と無力さを曝け出すだけでした。一体人々が、よりよき人生を模索するためにイスラーム法を試行してみよう、と思い立つ時はいつやって来るのでしょう?

C.E.アブドゥッラー・アーチボールド・W・ハミルトンはこう述べています:

「私は私のイスラーム改宗にあたって、私に親切にも手紙や電報を送って下さった全てのムスリム同胞に対し、心からの感謝の念を表明したいと思います。そして私は、私の送る言葉以上の祝福が、彼らに届くことを望んでいます。全世界が血の川の中をよろめき歩いた先の戦争の後、私はてっきり全ての平和と友好が終焉を迎えてしまったものだと感じていました。しかし実際のところ、私の同胞たちは七つの海の向こうから友好の手を差し伸べ、希望と励ましのメッセージを伝えて来てくれたのです。このことが、イスラームこそが世界に平和をもたらすことが出来るのだ、ということを私に強く訴えかけました。」

親愛なる読者各位へ。現代世界のある種のムスリムは道を見失い、その人生においてイスラームの教えを十分に尊んではいません。そして単に名前だけのムスリムに成り下がっています。しかし真のムスリムとは、クルアーンとスンナ(預言者ムハンマドの慣習)をその人生において実践する者のことなのです。真のムスリムとは自分の気に入ったイスラームの一部だけ取り入れ、その他の部分は放棄してしまうような者のことではありません。

そしてイスラームという教えは、ある特定の国や人種にのみ限られたものではありません。実際のところ全てのムスリムがイスラーム法に基づいて堅実な人生を送っているわけではなく、多くのムスリムが真のイスラームの教えを拒み、道を見失っています。またイスラームは、ある人々が誤解しているように決められたある宗教儀式を遂行するだけではなく、信仰、法、崇拝行為、社会的行為に関する諸事なども包含しています。それは宗教であると同時に政治システムでもあるのです。ある者はこう言っています:

「(イスラームは)一体何と偉大な宗教なのであろうか!後は、その教えを実践し、それが命じるものを履行し、禁じるものを放棄する人々が必要なだけだ。」

W.モンゴメリー・ワットはその著「イスラームとは何か?」の中でこう記しています:

「イスラームを学ぶヨーロッパ人、あるいはアメリカ人が直面する唯一の困難は、偏見である。イスラームを“クルアーンの宗教”とか“今日四億の信徒を擁する宗教”とか描写してみても、すぐそれが“宗教”という範疇には相応しくない分野の説明に入り込んでしまう。現在西欧で使われている“宗教”という言葉の意味は、一体何であろうか?平均的な人であればせいぜい、日常的問題に取り組む力と援助を与えてくれ、他人に優しくするよう励まし、また異性との付き合いの規準を維持させてくれる、日曜日の一時間かそこらで終わる儀式、とでも答えるかもしれない。つまりそれは商業や経済、政治や産業などということからは遠くかけ離れているのだ。そして悪いことには、そういった宗教の概念がより繁栄した個人の中に独り善がりの態度を助長させ、自己満足を育んでいる。またある種のヨーロッパ人は宗教を、開発者が人々をその支配下に確保しておくための麻薬剤として発展させたものであるとすら見ているかもしれない。これらはムスリムが読むクルアーンの節‐“実にアッラーの御許での真の宗教とは、イスラームである”‐の内包している意味と、いかに縁遠いことであろう!ここで“宗教”と訳されたアラビア語の言語は“Deen”、つまり人生の全てに関する手法のことである。それは人生の周辺部のみにしか触れないような、個人に関する私的な事柄だけに限らず、公私に渡って様々な物事を扱っている。つまり教義理論や崇拝行為の形式、政治理論や品行規準の詳細などの他、ヨーロッパ人が衛生学やマナーの分野に振り分けてしまいそうな物事まで包括しているのだ。」

イスラームは、完全な形で預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)に啓示された教えであり、そこには少しの変更もありません。変わるのはムスリムだけなのです。ムスリムが犯す間違いが、イスラームに帰されるわけではありません。バラバラの車を組み立てる際、それに関する十分理解可能な説明書を持っていながら失敗してしまったとしても、それがその説明書の欠陥にはつながらないのと同じことです。

私は親愛なる読者各位がイスラームに対する偏見や悪い感情にとらわれず、かつ目的を間違いの粗探しなどではなく真理への到達と定めつつ、この小冊子を読んで下さるようお願い申し上げます。至高のアッラーはクルアーンの中で、こう仰っています:

そして彼らに「アッラーが下されたものに従え」と言われれば、彼らは言う:「いや、私たちは私たちの祖先がそうであったところのものに従う。」彼らの祖先は物事を理解もしなければ、導かれてもいなかったではないか?(クルアーン 2:170)

論理的な人間とは、何かを受容する際には十分研究し吟味する者です。そして一旦何かが正しいということを証言するや否や、人々の間にそれを広め、自分たちの間違いを改正しようとする者なのです。

最後に、この小冊子において取り上げたことは、イスラームの全側面を網羅しているわけではありません。イスラームはこの世における人間の人生のあらゆる側面を取り扱っている、大変膨大な教えです。これらを全て網羅するとしたら、何冊もの書籍が必要となることでしょう。この小冊子で取り上げられているのは、イスラームの基本的道徳に関しての主要な側面をまとめたものだけです。また随所において、クルアーンと預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)のスンナ(言行録)からの典拠にも言及しています。

ある人たちは、イスラーム法が現代の法体系を修正して採用しているということを暗示しようとして、イスラーム法の一部は現代社会において履行されているではないか、と主張するかもしれません。しかしそのような疑念は、イスラーム法が 1400 年もの昔から存在している事実により難なく払拭されるでしょう。むしろ、それらの社会において施行されている法律自体が、イスラーム法から取り入れられたものと言えるかもしれないのです。

イスラームにおける一神論

イスラームは他の天啓宗教同様、アッラーがその信徒に信仰して布教するよう命じたと教えていますが、強制はその目的を達成する有効な手段ではありません。至高のアッラーはクルアーンの中で、こう仰っています:

宗教に強制はない。実に正道と邪道は明らかにされたのである。(クルアーン 2:256)

またイスラームはその信徒に、宗教をよき作法でもって布教することを命じています。至高のアッラーはこう仰いました:

英知とよき訓戒をもって、あなたの主の道へといざなえ。そしてよき手法を用いて彼らと議論するのだ。(クルアーン 16:125)

その教えに納得することもなくイスラームの受容を宣言することは、イスラームの基本律に反しています。というのも強制されて改宗すれば、その者の言葉や行いはその信仰との間に不調和を生むことになりますが、これこそはイスラームにおいて「偽信」と定義されているものなのです。イスラームは偽信に厳しい警告を与え、またそれを単なる不信仰よりも重い罪と見なしています。至高のアッラーはこう仰いました:

実に偽信仰者たちは地獄の業火の最下層に(放り込まれる定めである)。(クルアーン 4:145)

また人類にアッラーからのメッセージを伝え、強制や腕力を用いたりせずに彼らを正しい道へと導くのは、全ての預言者の任務でもありました。至高のアッラーはこう仰っています:

そしてアッラーに従い、使徒(ムハンマド)に従え。そしてもしあなた方が背いても、われら(アッラーのこと)の使徒の義務は明白なる(啓示の)伝達に過ぎないのである。(クルアーン 64:12)

イスラームにおける主な目的

アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は別れの巡礼*の際、ミナー*の地において人々にこう言いました:*預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)にとって最初で最後のハッジ(大巡礼)のことです。*「ミナー」とは、マッカ付近に位置する谷の名称です。

「今日はいかなる日だ?」人々は言いました:「アッラーとその使徒がよくご存知です。」彼は言いました:「この日は聖なる日(アラファの日:ヒジュラ暦の 12 月 9 日)である。ではここはいかなる場所か?」人々は言いました:「アッラーとその使徒がよくご存知です。」彼は言いました:「ここ(マッカとその付近の地)は聖なる場所である。ではこの月はいかなる月か?」人々は言いました:「アッラーとその使徒がよくご存知です。」彼は言いました:「この月は聖なる月(ヒジュラ暦 12 月のズルヒッジャ月)である。実にアッラーはこの日、この月のこの場所における神聖さと同様に、あなた方の生命と富、そして名誉を犯さざるべき神聖なものとされたのだ。」(アル=ブハーリーの伝承)

イスラームがいざない、かつその保護を謳っている最も重要な目的とは、宗教と生命と尊厳と財産と理性の保護です。生命の保護に関し、至高のアッラーはこう仰いました:

そしてアッラーが禁じられた(者の)命を、正当な理由もなくあやめてはならない。(クルアーン 17:33)

また財産の保護に関して、アッラーはこう仰っています:

そしてあなた方の財産を、不正に貪り合ってはならない。(クルアーン 2:188)

また尊厳の神聖さに関し、至高のアッラーはこう仰いました:

そして姦淫には近づくな。それは醜悪なものであり、悪い道である。(クルアーン 17:32)

またアッラーはこのようにも仰っています:

そして過ちや罪を犯しながら、それを無実の者に擦り付ける者は、実に虚偽と明白な罪を犯しているのである。(クルアーン 4:112)

また子孫や祖先に対して罪を犯すことの禁止に関し、至高のアッラーはこう仰いました:

そして背き去っては地上を徘徊し、腐敗を働いたり、農作物や子孫に被害を与えたりしようとする。アッラーは腐敗を愛でられないのだ。(クルアーン 2:205)

またイスラームは弱者の権利保護に対し、多大な配慮を払っています。それは彼らがより不正を被りやすい立場にあるからであり、アッラーはクルアーンにおいて様々な種類の弱者と、及び彼らがいかに不正を被るかという点に言及しています。まず、両親に関して至高のアッラーはこう仰っています:

そしてあなたの主は、あなた方がかれ以外の何ものも崇拝せず、両親に孝行することを命じられた。彼らの内片方、あるいは二人とも高齢に達したら、うんざりしたり乱暴に応対したりしてはならない。しかし彼らにいたわりの言葉をかけてやるのだ。(クルアーン 17:23-25)

また孤児に対して、アッラーはこう仰られます:

ゆえに孤児を抑圧してはならない。(クルアーン 93:9)

またイスラームは、孤児の財産保護を命じています。至高のアッラーはこう仰いました:

そして孤児が成熟するまで、その財産には良い形においてでなくしては近づいてはならない。そして約束を守るのだ。それは問われることになるだろうから。(クルアーン 17:34)

また子供に関し、 至高のアッラーはこう仰いました:

そしてあなた方の子供を、困窮を恐れて殺してはならない。われら(アッラーのこと)こそが彼らとあなた方を養うのである。(クルアーン 6:151)

また病人に関しては、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)がこう言っています:

「捕虜を解放し、飢えている者に食を与え、病人を見舞うのだ。」(アル=ブハーリーの伝承*)*「何某の伝承」とは、預言者やその教友たちの言行などを収めたいわゆる「ハディース集」の典拠を示しています。

一方年長者に関して、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「年長者を敬わない者と年少者を慈しまない者、そして学者に敬意を払わない者は私たちの内の者ではない。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

また困窮者に関して、至高のアッラーはこう仰います:

そして頼み事をしてくる者に、辛くあたってはいけない。(クルアーン 93:10)

またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「アッラーはそのしもべが同胞を援助する限り、かれもその援助の手を差し伸べられるのだ。」(ムスリムの伝承)

イスラームがその信徒に実践するよう命じた素晴らしい手法は、他にも沢山あります。そしてそれらの全ては個人の人格を高め、かつ社会全体の改善を促すのです。

イスラームの特性

1

クルアーンと預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)のハディース*の中には、全ての宗教は何ものも併置することなくアッラーのみを崇拝するという一つの教義へといざなってきたのだ、ということを示す典拠が沢山あります。アッラーは人々に多くの預言者を遣わしてきましたが、それぞれの預言者が携えて来たメッセージはそれ以前のメッセージを改新するものでした。それはノアの時代から、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の使命の時まで継続したのです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:*「ハディース」とは、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の言行や特質、または他人の何らかの言行に対する彼の了承に関する伝承のことです。

「実に私と他の預言者たちとの関係は、その角に一つのレンガが抜けていることを除いては、完全で美しい一軒の家を建てた者のようなものである。人々はその周囲を回ってそれを賛美するが、こう言うのだ:“もしこの場所にレンガが一つ入れられれば申し分ないのに!”そして私こそがそのレンガなのであり、預言者の封緘なのである。」(アル=ブハーリーの伝承)

預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の後にはいかなる預言者も現れません。唯一の例外はイエス(彼に平安あれ)で、世界の最後の時が近づいた時に彼は地上に降臨し*、正義でもって不正と抑圧に満ち溢れた世界を治めます。そしてその際に彼がもたらすものは新しい宗教なのではなく、イスラームでもって世界を治めるのです。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:* イスラームにおいてイエスは、キリスト教徒やユダヤ教徒がそう信じているように、張付けにされて死んでしまったとは見なされていません。ユダヤ教徒たちは彼らが彼のことを殺したと信じ込んだだけで、実際のところは天に召されたのです。クルアーン(4:157)参照のこと。

「マリヤの子(イエス)がイスラームによって裁く正義の統治者として降臨するまで、審判の日は到来しない。彼は十字架を破壊し、豚を殺すであろう。また彼はジズヤ*を撤廃し、誰もそれを受け取るのを拒むようになるまで富を行き渡らせるであろう。」(アル=ブハーリーの伝承)*「ジズヤ」とはイスラーム国家による保護を受けつつ、その中に居留することを選んだ非ムスリムが支払う税金のことです。

アッラーはマリアの子イエスを遣わします。彼はダマスカス東方にある“アル=マナーラ・アル=バイダーゥ(白いミナレット)”という場所に両腕を二人の天使にかけた状態で降臨します。それからダッジャール(偽メシア)を倒し、イスラームによって地上を治め、十字架を壊します。また豚を殺し、人々の間から吝嗇が去るまで財を行き渡らせます。全ての預言者は、アッラーにのみ主権と崇拝対象としての権利を認め、そこにおいてかれに何ものをも並べないことへと人々をいざいないました。また彼らはアッラーがいかなる欠陥からも無縁であること、そしていかなる仲介者も介さずにかれのみを崇めることを主張したのです。彼らは人類を矯正し、現世と来世において人間が真の幸福を達成出来る道へと導いたのです。 至高のアッラーはこう仰いました:

アッラーは)あなた方に、ノアに命じたものと同じ宗教を定めた。そして(また)あなたに啓示したものと、アブラハムとモーゼとイエスに命じたものも(同様に定めた)。「宗教を実践し、そこにおいて分裂してはならない。」(クルアーン 42:13)

2

イスラームはそれ以前の宗教を無効化しました。イスラームこそがアッラーが人類のためにお選びになった最後の宗教であり、かれはそれ以外の教えを認められません。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてわれら(アッラーのこと)はあなたに、真実をもって(クルアーン)を下した。それはそれ以前の諸啓典を確証し、かつ従属させるものである。(クルアーン 5:48)

イスラームは最後の宗教であるゆえ、特定の時期に特定の民のために下された他の宗教とは違って、審判の日まで改竄から免れます。至高のアッラーはこう仰いました:

実にわれら(アッラーのこと)は、訓戒(クルアーンと預言者ムハンマドの言行)を下した。そしてわれらはその守護者なのである。(クルアーン 15:9)

またイスラームの預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は最後の預言者であり、彼以後にはいかなる預言者も出現しません。至高のアッラーはこう仰いました:

ムハンマドは(彼が授かった本当の彼の子でもない)あなた方の内の誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒であり、最後の預言者なのだ。(クルアーン 33:40)

しかしこのことはイスラームが彼以前の預言者や啓示を否定したり、信じないことにはつながりません。それどころかイエスはその民にモーゼが伝えたものと同じメッセージを伝達したのですあり、ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はイエスが伝えたのと同じメッセージを伝達しています。つまりアッラーに何ものも併置することなく、かれのみを崇拝する、というメッセージのことです。

ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は最後の預言者・使徒であり、ムスリムは全ての預言者と啓典を信仰することを義務付けられています。それらの預言者の内の一人、あるいは啓典の内の一つでも否定する者は、イスラームにおいて不信仰を犯していると見なされるのです。至高のアッラーはこう仰いました:

アッラーとその使徒たちを信じず、アッラーと彼らの間を分け隔てようとする者たち。そして「私たちは(使徒たちの)これこれの者たちは信じるが、他の者たちは信じない。」などと言って、その(信仰と不信仰の)間に道を見出そうとする者たち。彼らこそは真に不信仰者である。(クルアーン 4:150-151)

3

イスラームはそれ以前の全ての天啓法を完遂し、完結しました。イスラーム以前の全ての宗教は特定の時期に特定の民のために下されたものですが、イスラームはあらゆる時代と人々に適した完全かつ永劫の、普遍的な宗教なのです。至高のアッラーはこう仰いました:

この日われはあなた方に対し、あなた方の宗教を完成させた。そしてあなた方への恩恵を全うし、イスラームがあなた方の宗教であることに満足した。(クルアーン 5:3)

このような理由ゆえに、イスラームは最善の宗教です。至高のアッラーはこう仰いました:

あなた方は善を命じて悪を禁じ、かつアッラーを信仰するところの、人類に出現した最高の共同体である。もし啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)が信仰に入れば、それは彼らにとってよいことであったのだが。彼らの内のある者たちは信仰者となったが、多くの者は放埓者である。(クルアーン 3:110)

4

イスラームは世界的な宗教であり、全人類に向けられたものです。イスラームはある特定の人種や階層のために下ったのではなく、むしろ全人類を平等と見なします。肌の色や言語、場所や血統などによる差別はなく、全人類が共有し、またその統一を促進するような種類の信仰の上に成立しているのです。アッラーが唯一かつ真の主であり、イスラームが正しい宗教で預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)が最後の預言者であことを信じる者は、その人種や肌の色や民族を問わず皆ムスリムと見なされます。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてわれら(アッラーのこと)はあなたを、福音と警告を告げる者として人類全てに向けて遣わした。(クルアーン 34:28)

預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)以前の預言者や使徒は、皆特定の民に向けて遣わされました。至高のアッラーはノアについて、こう仰っています:

実にわれら(アッラーのこと)はノアをその民に遣わした。(クルアーン 7:59)

また預言者フード*について、アッラーはこう仰っています:*預言者フードは、アラビア半島で肉体的に強大で栄華を極めていたアードの民に遣わされました。しかし彼らは彼に従わなかったため、アッラーは暴風雨を送って彼らを滅ぼしました。

そしてアード(の民)には、その同胞フードを遣わした。彼は言った:「民よ、アッラーを崇めよ。あなた方にはかれの他に、崇拝すべきいかなるものもないのであるから。」(クルアーン 7:65)

また預言者サーリフ*については、至高のアッラーはこう仰っています:*預言者サーリフもまた、アラビア半島で栄えていたサムードの民に遣わされました。彼らもまた彼に従わなかったため、アッラーの懲罰を受けて滅亡しました。

そしてサムード(の民)には、その同胞サーリフを遣わした。彼は言った:「民よ、アッラーを崇めよ。あなた方にはかれの他に、崇拝すべきいかなるものもないのであるから。」(クルアーン 7:73)

また預言者ロトについて、至高のアッラーはこう仰いました:

そしてロト*が、その民にこう言った時のこと(を思い出せ)…(クルアーン 7:80)*預言者アブラハムの甥。信仰せず同性愛などの不義に陥っていた民(聖書ではソドムの民と呼称)に遣わされましたが、それを拒んだ彼らは町ごと厳しい懲罰を受けて全滅しました。

またシュアイブ*については、至高のアッラーはこう仰いました:*シュアイブはマドゥヤンというアラブ半島の 1 都市に遣わされた預言者。その民は不信仰と不法な商業取引に溺れており、シュアイブは彼らをアッラーのみへの信仰と公正な商売へといざないました。しかし彼らがそれに従わなかったため、アッラーは彼らに懲罰を下されました。

そしてマドゥヤン(の民)には、その同胞シュアイブを遣わした。(クルアーン 7:85)

またモーゼに関して、至高のアッラーはこう仰いました:

そして彼らの後、われら(アッラーのこと)はわれらのみしるしと共に、モーゼをファラオとその(配下の)頭目たちに遣わした。(クルアーン 7:103)

またイエスに関して、至高のアッラーはこう仰いました:

そしてマリヤの子イエスがこう言った時のこと:「イスラエルの民よ、私は私以前のトーラーを確証し、そして私の後に到来する“アフマド”という名の使徒の福音を告げるべくあなた方に遣わされた、一人の使徒である。」(クルアーン 61:6)

イスラームは世界的宗教であるゆえ、全人類に対してそのメッセージを呼びかけます。またアッラーは、ムスリムがそのメッセージを伝達することを命じられました。至高のアッラーはこう仰いました:

こうしてわれら(アッラーのこと)は、あなた方を公正かつ最善の民とした。それはあなた方が人々の証人となり、そして使徒(ムハンマド)があなた方の証人となるためなのである。(クルアーン 2:143)

5

イスラームの教えと法は、全てアッラーからのものです。それらは人間の手によって作られたものとは違い誤りや欠陥がなく、また社会や伝統や文化といった外的要素からの影響を蒙ることがありません。これは現在も観察されていることであり、人間が作った法は安定せず、時折改変や修正を求められます。ある社会に適する法は別の社会には適しないかもしれず、またある時代に適するものは別の時代には相応しくないかもしれないのです。例えば資本主義社会の法律とシステムは共産主義社会には適しません。ある法律やシステムは特定の社会に適用する際、その特定の目的や視点を考慮しなければならないのです。更にはもしより見識高く知識に優れた人が現れた場合、彼は既存の法律を改変するかもしれませんし、あるいはそれとは矛盾する概念を提示するかもしれません。

しかしイスラーム法は記述した通り、神授のものです。その法を定めたのは誰ならぬ全ての創造主なのであり、何が被造物の状況に最も適し、最も有益であるかをご存知の方なのです。いかなる地位にある者もこの法に反対したり、改変したり、付加したり、放棄したりする権利はありません。 至高のアッラーはこう仰いました:

一体彼らは、ジャーヒリーヤ(イスラーム以前の無明時代)の裁決を望むというのか?(アッラーを)確信する者にとっては、裁決においてかれに優るものなどいないというのに。(クルアーン 5:50)

6

イスラームはその典拠が普遍的で、全ての時代と場所に適応する宗教です。しかしその一方で、時間や地域的相違の影響を受けない不変の一般的原則や教義も明らかにしています。例えばアッラーやその天使たち、その諸啓典、諸使徒、最後の日と定命に関する信仰など信条に関連することや、礼拝の動作とその時刻、義務の浄財の定額とそれを与える対象、義務の断食の時期やハッジ(義務の巡礼)の特性と時期と規則など、イバーダ(崇拝行為)に関することなどがそれです。

世界で起こる全ての新しい出来事に関する見解は、クルアーンとスンナ(預言者ムハンマドの言行録)によって吟味されます。もしクルアーンとスンナの中にそのことに関する見解が直接見つからない場合は、敬虔な学者がムスリムの福利とその時代や社会状況を考慮しつつ、法的典拠を根拠に見解を導き出すための努力をします。この作業は クルアーンの句とスンナの一般的意味を調査し、かつ以下に示すような法学的原理を研究しつつ行われます:

  1. イスラームにおいて全ての物事は、それが非合法であるという一般的あるいは特定の典拠が存在しない限り合法です。
  2. 社会の共益と福利の保護。
  3. イスラームは易しい教えであり、不必要な困難があればそれを免除します。
  4. 害することも害されることも回避されなければなりません。
  5. 悪事を、それが広がる手段を封じることで押しとどめます。
  6. 切迫した必要があれば、非合法な物事は合法化されます。
  7. 切迫した必要があれば、その状況に応じて非合法性を合法化します。
  8. 害悪の回避は、福利の成就よりも優先されます。
  9. もし悪い選択しかないような場合は、よりましな方を選択します。
  10. 害悪は同様の害悪でもって回避したりしません。
  11. 特定の害悪は、一般的害悪を回避するためにその回避を保留したりしません。

この他にも同じような沢山の法学的原理が存在します。また見解を導き出すための法的努力において、学者は自分の私欲に従ったり、またそれを個人的利益を得るための道具としてはなりません。法学者は法的典拠に反しないような手法でもって、社会的利益を導くために最善の努力をするべきです。イスラームはあらゆる時代に適応し、あらゆる社会の必要を満たす力があるのですから。

7

イスラームにおいて偏見はありません。その法的項目は経済的に豊かな者と貧しい者、高貴な者と庶民、統治者と臣民、また肌の色などの区別なく全ての者に適用されるのです。イスラーム法の実践において、全ての者は平等なのです。

これに関する出来事として、預言者時代のある日マフズーミー部族(最も高貴な血統であるクライシュ族の支族)出身のある女性が、盗みを犯した事がありました。

人々は言いました:「一体誰がアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)に話して(彼女に対する窃盗の刑罰の免除について)執り成すのだ?アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)の寵愛するウサーマしか、それが出来る者はいないではないか?」それで彼(ウサーマ・ブン・ザイド)がその女性の刑罰を免除してもらおうとしてアッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)に話すと、彼はこう言いました:「アッラーの刑罰において執り成そうというのか?」

そして預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は立ち上がると、説教してこう言いました:

「人々よ!あなた方以前の者たちは、高貴な者が盗みを犯せば放免し、弱者が盗みを犯せば刑を執行する、などということをしていたために滅亡したのだ。アッラーに誓って。もしムハンマドの娘ファーティマが盗みを犯すようなことがあれば、ムハンマドは彼女の手を切るぞ。*」(ムスリムの伝承)*イスラームにおける窃盗罪の刑罰は、右手の切断です。

8

イスラームの法的典拠は現在に至っても元来の形を保持しており、いかなる省略や付加や置き換えも蒙ってはいません。そしてイスラーム法の主要典拠は、クルアーンとスンナ(預言者ムハンマドの慣行)なのです。

現存しているクルアーンは、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)に啓示された当時のままの字と句と章を維持しつつ、元来の形を保っています。クルアーンはただ一つの改ざんも受けてはいないのです。

預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はその存命中、アリーやムアーウィヤ、ウバイ・ブン・カアブやザイド・ブン・サービトなど、教友の中でも最も優れた者たちに、彼に下された啓示を書き留めるよう命じました。それで彼に啓示が下るたび、彼はそれをどの章のどの箇所に書き留めるかを正確に指示し、教友たちがそれを命令通りに書き留めたのです。またクルアーンは書物の形で保存されると同時に、ムスリムの心の中にも暗記という形で維持され続けました。

ムスリムはアッラーの書に特別な敬意を払っています。そしてそれを教授し学習することにおいて、互いに競い合うようにして努力するのです。これも全て、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)が約束した来世での報奨のために他なり
ません。

「あなた方のうち最善の者は、クルアーンを学び教える者である。」(アル=ブハーリーの伝承)

ムスリムはクルアーンに奉仕し、配慮し、またその暗記のためにその時間と財産を惜しげなく費やします。ムスリムはこうして世代から世代へと、クルアーンを受け継いでゆくのです(クルアーンの暗記と朗誦は、崇拝行為の一つと見なされます)。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、こう言いました:

「クルアーンを朗誦する者は誰でも、十の報奨を得よう。“アリフ・ラーム・ミーム”は一つの語なのではない。“アリフ”も“ラーム”も“ミーム”も、それぞれ一語なのである。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

そしてイスラームにおける第二の法源が、クルアーンの意味の明確化と説明の役割を担っているスンナ(預言者ムハンマドの言行録)です。アッラーはスンナに関しても、その一生をそこに捧げた敬虔で信頼に溢れる学者たちの研究により、あらゆる改ざんや偽造から保護しました。学者たちは預言者の伝承の鎖を調査し、それが本当に彼から伝えられたものなのかどうかを検証しました。更には伝承の鎖の中に存在する各伝承者のことも調査し、果たして彼らが十分な敬虔さと信頼性を備えているかどうかを研究したのです。彼らは預言者から伝えられる全ての伝承をふるいにかけ、真正であると判明したもの以外は受け入れませんでした。これらの伝承は、現在まで私たちのもとに届いています。スンナの保存のために用いられた方法論についてご存知になりたい方は、伝承学の書籍に目を通されると良いでしょう。伝承学を研究してみれば、私たちのもとにある伝承に関する信頼性には疑念を挟む余地もないことが分かり、またその保存のために奉仕した学者たちの想像を絶する努力が実感出来るはずです。

9

イスラームは性別や肌の色や言語などの相違に関わらず、全人がその本質において平等であると説きます。アッラーが最初に創造した人間はアダムですが、彼は全人類の父祖なのです。またアダムからその妻であり、全人類の母であるイブが造られ、そして彼らを両親としてその子孫が生まれたのです。その元来の本質と創造において、全人類は平等です。至高のアッラーはこう仰いました:

人々よ、あなた方を一つの魂(アダム)から創られ、次いでそれからその妻を創られ、そしてその二人から多くの男女を創り広げられたアッラーを畏れるのだ。そしてあなた方がかれにおいて同情し合うところのお方と、親戚の絆の断絶に対して身を慎め。(クルアーン 4:1)

またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、こう言いました:

「実にアッラーは、イスラーム以前の無知の時代にあなた方が不当に抱いていた誇り‐特に祖先に関する誇りという無知の気持ちを捨て去られた。人はアッラーを畏れる信仰者か、あるいは罪深い不信仰者のいずれかなのだ。全ての者はアダムの子であり、アダムは土塊から造られたのである。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

過去の、そして未来の全ての世代はアダムの子孫です。かつて人類は一つの宗教と一つの言語を有していましたが、その数が増大化して地上に散開し、異なった土地に居住したことによってその色や特徴、言語を異にするようになったのです。このことはまた彼らを違う思考様式と生活様式、そして信仰へと導きました。

至高のアッラーはこう仰っています:

人々は一つの共同体であった。そしてそれから相違が生じたのである。もしあなたの主の御言葉(による定め)が先んじていなければ、彼らは相違したまま裁決を下されてしまったであろうに。(クルアーン 10:19)

イスラームの教えはその性別や人種、言語や民族を問わず、全ての人間を平等と見なします。ただ一つだけ異なるのは、その人生においてアッラーの教えを実践するかどうかという点なのです。至高のアッラーはこう仰いました:

人間よ、実にわれら(アッラーのこと)はあなた方を一組の男女から創った。そしてあなた方を多くの民族や部族に分け広げた。それはあなた方が互いに知り合わんがためなのである。実にアッラーの御許で最も貴い者は、あなた方の内で最もアッラーを畏れる者。アッラーは全てをご存知になり、全てに通暁されたお方。(クルアーン 49:13)

イスラームにおいて認識されている平等性によれば、全人類はその自由においても平等です。但しその自由はそれでもって好き勝手に振舞うような動物的自由ではなく、宗教でもって規則付けられた自由なのです。

イスラームは全人に対し、以下に示すような権利を保障しています:

A)

思想と主張の自由:イスラームはその信徒が咎められることを恐れずに真実を話し、その思想と意見を建設的かつ焦点を突いた形で表現することを勧めています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「最高の形のジハード*は、不正を働く統治者や指導者の面前での真実の言葉である。」(アブー・ダーウードの伝承)*「ジハード」とは、アッラーの御言葉と宗教が興隆するために奮闘努力することです。

預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の教友たちは、この信条を実践していました。ある時、ある男が第二代正統カリフのウマル・ブン・アル=ハッターブにこう言いました:

「信仰者の長よ、アッラーを畏れるのだ。」すると他の者がそれを遮って、こう言いました:「お前は信仰者の長に、“アッラーを畏れよ”などと言うのか!?」するとウマルは言いました:「放っておけ。そのまま言わせるのだ。もしお前が私たちにそのように言ってくれなければ、お前には何の良いこともない。そしてもし私たちがそれを受け入れなければ、私たちには何の良いこともないことになるのだから。」

また別の際、アリーは何らかの出来事に関し、自分の意見でもって裁決を下しました。当時のカリフだったウマルは、その裁決について訊ねられてこう答えました:

「もし私だったら、このような判決を下していたろうに…。」そして人々がウマルに、なぜ彼が信仰者の長であるにも関わらずアリーに対して論駁しなかったのか訊ねると、彼はこう言いました:「もしその出来事に関する見解がクルアーンかスンナで言及されていたなら、私は彼に論駁しただろう。しかし彼の判決は彼の意見によるもので、正しいかも間違っているかもしれない。アッラーの御許で、いずれの意見がより真実であるかなどとは誰にも分からないのだ。」

B)

全人は合法的な形で生計を立て、また所有する権利があります:至高のアッラーはこう仰いました:

アッラーがあなた方のある者に、他の者よりも多く恵まれたものに関して羨望するのではない。男たちには彼らが稼いだものに応じての取り分があり、女たちにも彼女らが稼いだだけの取り分がある。(クルアーン 4:32)

C)

全人は知識を身につける権利があります。それどころか、イスラームは知識の追求を一つの義務と見なしています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「知識の追求は全ムスリムにとっての義務である。」(イブン・マージャの伝承)

D)

全人は、アッラーがこの宇宙に創造した清浄でよい物を、イスラームの教えに従ったやり方で利用する権利を有します。至高のアッラーはこう仰いました:

かれ(アッラーのこと)こそは、あなた方のために大地を平坦にされたお方。それであなた方はその方々を歩き回り、かれからの糧を食べるがよい。あなた方はかれの御許に召集される身の上なのだ。(クルアーン 67:15)

E)

全人はその能力と必要な技術がある場合において、社会における指導的役割を担う権利があります。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「ムスリムに関する権威を与えられたにも関わらず彼らを欺く者は、地獄の業火に入るであろう。」(アフマドの伝承)

イスラームはそれにふさわしくもない者に対して何らかの権威を与えることを、アッラーから委任された信頼に対しての裏切りと見なします。そしてまたこのような現象は、審判の日と世界の滅亡の到来が間近に迫っていることを示す一つの兆候なのです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「信頼が裏切られる時、審判の日の到来を待て。」ある者が言いました:「アッラーの使徒よ、いかに信頼が裏切られるのですか?」すると彼は答えました:「権威がそれに相応しくもない者に与えられた時、審判の日の到来を待つのだ。」(アル=ブハーリーの伝承)

F)

イスラームには他の宗教に見受けられるように、絶大な権力を備えた自治的な精神的権威のようなものは存在しません。これはイスラームがアッラーとそのしもべの間にいかなる仲介者を介すことも許さないためです。アッラーはかれ以外の何かを崇拝する者を、それが彼ら自身を崇拝することに繋がるとしてこう糾弾しています:

アッラーにこそ純正な宗教がふさわしい。しかしかれ以外の何かをその保護者とする者たちは、(こう言うのだ:)「私たちはアッラーへと近づけてくれるために、それらを崇拝しているに他ならない。」・・・(クルアーン 39:3)

アッラーはこれら仲介者には何の利益や害ももたらす力などなく、それどころか彼らは自分自身の必要すら満足に満たすことが出来ないということを説明しつつ、その真実を明らかにします。結局のところ、それらもまたアッラーの被造物なのですから。至高のアッラーはこう仰いました:

彼らがアッラーを差し置いて祈っているものは、あなた方同様(アッラーの)しもべなのである。ゆえにあなた方が本当のことを言っているのだというならそれらに祈り、それらを(その祈りに)応じさせてみるがいい。(クルアーン 7:194)

イスラームはアッラーとそのしもべの直接的関係を強調します。この関係は、アッラーのみが援助や必要の祈願や悔悟など全ての場合において立ち返るべき存在であり、そこにはいかなる仲介者も介在しないという信仰の上に成り立っているのです。もし人が罪を犯したら、その者はいつどこにあろうと慎ましく両手を上げて、アッラーのみにそのお赦しを乞えばいい話なのです。至高のアッラーはこう仰いました:

悪事を行ったり、自らに不正を働いたりする者で、その後アッラーにその(罪の)お赦しを乞う者は、アッラーがお赦し深く慈しみ深いことを見出すであろう。(クルアーン 4:110)

またイスラームには、自分たちの意見に従って物事を許され得るか許され得ないかを決定するような聖職者は存在しません。アッラー以外には何者も罪を赦す権利はなく、神とそのしもべの間の仲介には立てないのです。そしてまたアッラー以外の何者も宗教において新しい法を定めたり、信仰に関する法を改変したり、罪を赦したり、それに相応しいと見なす者に天国を約束したりすることなど出来ないのです。法を定めることに関する権利は、アッラーのみに属します。アッラーはこう仰いました:

(ユダヤ教徒、キリスト教徒ら啓典の民は)アッラーを差し置いて、彼らの学者や僧侶たち、そしてマリアの子メシア(イエス)を彼らの主と拝した。(クルアーン 9:31)

またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこの件に関して、こう言っています: 

「彼ら(ユダヤ教徒とキリスト教徒)はそもそも聖職者たちを崇拝などしてはいなかった。しかし彼らが合法化するものを合法とし、また非合法化するものを非合法としていたのである。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

G)

イスラームは全個人に、社会における彼らの異なった役割に応じてそれぞれ特定の権利を与えました。これは人生が円滑かつ最善の形で進行し、また全ての者が宗教から最大限の利益を得るがためなのです。両親や子供、親戚や隣人、友人など、全ての者がイスラームによって与えられた諸権利を有しています。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてアッラーを崇拝し、かれと共に何ものをも配してはならない。そして両親と近親と孤児、恵まれない境遇にある者たち、また近い隣人と遠い隣人、そして近しい仲間と旅路(で苦境)にある者、あなた方の右手が所有する者(奴隷)に対して善行を施すのだ。実にアッラーは、自惚れ屋の高慢な者を愛で賜らない。(クルアーン 4:36)

またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「互いに妬み合ってはならない。また買うつもりもない物を褒め上げて、値を吊り上げてもならない。互いに憎しみ合ったり、背き合ってもならない。また商売が成立しかかっているところに割って入り、自分の商品をそれよりも低い値段で売ろうとしてはならない。むしろあなた方はアッラーのしもべとなり、同胞となるのだ。ムスリムは兄弟同士である。互いに不正を働いたり、裏切ったり、騙したり、蔑んだりしてはならないのだ。敬神の念とはここにあるのである。」そう言って彼は自分の胸を三度指差しました。「ムスリムがその同胞を蔑むことの何と悪いことか。ムスリムは同胞の命と財産と名誉を侵害してはならないのだ。」(ムスリムの伝承)

またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこうも言っています:

「自らに欲することを同士にも欲するようにならなければ、本当に信仰したことにはならない。」(アル=ブハーリーの伝承)

そしてイスラームはその敵に対してさえも、その権利を認めています。教友ムスアブ・ブン・ウマイルの兄弟アブー・アズィーズ・ブン・ウマイルはこう言いました:

「私はバドゥルの戦役で捕虜となりましたが、その際アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:“捕虜によくせよ”。私はアンサール*の集団の中にいましたが、彼らが昼食や夕食を摂る時には‐彼らはナツメヤシの実を食していました‐、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の命に従って私にパン*を与えたものでした。」(アッ=タバラーニーの伝承)*「アンサール」とは、マッカからマディーナへと宗教迫害を逃れて移住した信仰者たちをマディーナで迎え入れ、財や住居などの物質的側面と精神的側面の両方から援助した信仰者たちのことです。* 当時のアラブ人は食料がない時には、ナツメヤシの実で食いつないでいました。ここでは捕虜であった非ムスリムの彼に、自分たちよりも良い食事を提供したということを意味しています。

またイスラームは、動物にさえもある種の権利を与えています。

アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は飢えのために疲労したラクダを見て、こう言いました:

「自分たちの意思を伝えることの出来ないこの動物たちにおいて、アッラーを畏れよ。それらを乗用に用いるのであれば、(きちんと食事を与えてやるなどとして)それ相応の扱いをせよ。またそれらを食用に用いるのであっても、(十分食べさせて健康を気遣うなどして)それ相応の扱いをするのだ。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

イスラームは個人が集団に提供しなければならない特定の権利を与えると共に、集団が個人に対して提供しなければならない特定の権利も定めています。個人は常に集団の福利を念頭に置くべきで、一方集団は個人の福利を常に心しておくべきです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「信仰者とは互いに支え合う(レンガから成り立つ)、一つの建物のようなものである。」そう言って彼は両手の指を組み合わせました。(アル=ブハーリーの伝承)

もし個人と集団の福利が衝突する場合には、集団の福利が個人のそれに優先されます。例えば崩壊しかけている家があったら、それは解体すべきです。というのもそれは通行人を害する危険があり、もしそうなった場合にはその所有者がその責任を問われることになります。

10

イスラームは慈悲と愛と哀れみの教えであり、粗暴さを禁じます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「最も慈悲深いお方(アッラーのこと)は、慈悲深い者に慈悲深くあられる。ゆえに地上のものに慈悲深くあるのだ。そうすれば天にあるお方が慈悲深くあられるだろう。子宮(アラビア語で Ar-rahim)は、わが御名“慈悲深いお方(Ar-Rahman)”に由来しているのだ。その絆(血縁関係)を維持する者にはアッラーもその者との絆を結び続け、またそれを絶つ者に関しては、かれもその者との絆を絶たれるであろう。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

イスラームにおける慈悲は人間だけに限られたものではなく、動物にも向けられます。ある女性はその猫を罰したことで、地獄に入りました。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「ある女性が猫を罰した。彼女はそれを死ぬまで閉じ込め続けたゆえに、地獄に入れられたのだ。彼女はその猫に餌も飲み物も与えず幽閉し、放して地上の生物を捕獲すらさせようとしなかった。」(アル=ブハーリーの伝承)

また動物に対する優しさや哀れみの心は、天国に入る要素の一つと見なされます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「或る男が道を歩いている時、喉の乾きに襲われた。すると井戸を見つけたのでその中に降り、水を飲んだ。そこから出てみると、犬が乾きのため舌を出し、ハアハア言いながら泥を食べていた。男は言った。“この犬も喉が渇いているのだな。自分がそうだったように。”そして井戸の中に降りると、靴に水を満たし、それを犬の口のところに持っていって飲ませた。アッラーは彼に報奨を与え、そして彼の罪を赦した。」人々は言った:「預言者よ、畜獣への善行にも報奨があるのですか?」 彼は言いました:「全ての生きとし生けるものには報奨があるのだ。」(アル=ブハーリーの伝承)

この慈悲が動物に対するものであれば、一体人間に対するイスラームの慈悲はどのようなものになるでしょう?アッラーは人間を全ての被造物の上に据え置き、最も高貴な存在としたのです。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてわれら(アッラーのこと)はアダムの子ら(人類のこと)を高貴な存在とし、陸に海に彼らを運んだ。また彼らによき物を糧として授け、われらが創造したあらゆるものの上に位置づけたのだ。(クルアーン 17:70)

11

イスラームは独身主義や修道院、合法的な現世的享楽の拒否などを認めてはいません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:

「物事が困難になってしまわないよう、自分たちに対して厳しくあり過ぎてはならない。自らに厳しくあり過ぎる者に対しては、アッラーもその物事を厳しくされよう。そしてそれこそが修道院や修行場に残存している物事なのである。」それから彼はこう唱えました:

そして彼ら(キリスト教徒ら)が発明した修道院。われら(アッラー)がそれを定めたのではないが、彼らがアッラーのご満悦を望んでそれを始めたのである。しかし彼らはそれをきちんと遵守していたわけではなかった。(クルアーン 57:27)*アブー・ダーウードの出典。

またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、こう言いました:

「浪費や驕慢さや虚飾に陥ることなく食べ、飲み、施せ。実にアッラーはかれの恩恵の印がそのしもべに表れることを愛で給われるのだ。」(アル=ハーキムの伝承)

しかし一方でイスラームは人が物質的生活に浸りきったり、またいかなる制限もなく欲望や享楽にのめり込んだりすることを許してはいません。そうではなく、イスラームは個人の生活を現世と来世の間で互いに補足させ合うような形でバランスの取れたものとする、中庸さの宗教なのです。

またイスラームは、肉体及び精神的要求間のバランスを養うことも命じています。例えばムスリムは日常生活における様々な用事に勤しむ一方、崇拝行為を通じてその精神的要求に関しても想起するのです。 至高のアッラーはこう仰いました:

信仰する者たちよ、金曜日に礼拝の呼びかけが成されたらアッラーの唱念に勤め、売買を(一旦)放棄するのだ。それこそがあなた方にとって最善なのである。もしあなた方がこのことを知っていたら(そうするのであるのに)。(クルアーン 62:9)

またムスリムはその生活の糧を稼いでいる時であっても、物質的需要やその維持に関する諸事を蔑んだりはしません。至高のアッラーはこう仰いました:

そして礼拝が終わったら地上に散開し、アッラーのお恵みを求め(努力す)るのだ。(クルアーン 62: 10)

このようにイスラームは、あらゆる側面の良い面を集結することを勧めるのです。至高のアッラーはこう仰いました:

取引や商売によって、アッラーの唱念とサラー(礼拝)の遵守、そしてザカー(浄財)の拠出をおろそかにしたりはしない者たち。彼らは心と眼がひっくり返されるその日(審判の日)のことを、恐れているのだ。(クルアーン24:37)

イスラームは魂と肉体、及び知性の権利をいかなる見地においても極端には陥ったりはしないよう、イスラーム法がそう割り当てた通りにバランスよく保護します。ムスリムは自分自身の保護と、自分が行う全ての行為の自主的計算を任されているのです。至高のアッラーはこう仰いました:

それで小蟻一匹の重さほどでも善行を行った者は、(審判の日)それを目の当たりにする。そして小蟻一匹の重さほどでも悪行を行った者は、(審判の日)それを目の当たりにする。(クルアーン 99:7-8)

人は身体的諸事や、飲食や衣服、結婚や仕事などの合法的な現世的享楽を否定すべきではありません。至高のアッラーはこう仰いました:

言え(ムハンマドよ)、「(アッラーが)そのしもべのために提供されたアッラーの装飾品と、その糧からのよきものを禁じる者は何様であることか?」 (クルアーン7:32)

イスラームが禁じるのは精神や身体、財産や社会的側面において害を及ぼすような類の醜悪で有害な物事だけです。人間の魂はアッラーによって創造され、そしてアッラーはかれのみを崇拝させ、かれの法を施行させるべくして人間を地上におけるかれの後継者としたのです。イスラームがそのような権利を特別に認めた場合(刑罰など)でない限り、いかなる者も上記のような人間の側面を損ねたり、破滅に陥らせたりすることは出来ません。アッラーはこの世界を発展させると同時に、崇拝行為や諸権利の遂行などの諸々のアッラーに対する義務行為を満たさせるべく、人間の魂にそれに相応しい十全な肉体を創造したのです。至高のアッラーはこう仰いました:

実にわれら(アッラーのこと)は人間を、最良の形に創造した。(クルアーン 95:4)

このようなことから、アッラーは私たちが宗教によって定められた規則に従ってこの肉体を保護し、配慮することを命じています。そしてイスラームはこの目的が達成されるべく、以下のような物事を定めました:

A) 身体の浄化

至高のアッラーはこう仰いました:

アッラーは実に(罪から)よく悔悟する者たちと、(汚れから)よく心身を清める者たちを愛でられる。(クルアーン 2:222)

アッラーはムスリムが毎日五度行うことになっている礼拝の有効条件として、身体の洗浄を義務付けました。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「礼拝は、身体の洗浄なしには受け入れられない。また施しは、非合法なものによって得られた稼ぎからは受け入れられない。」(ムスリムの伝承)

またアッラーは、性行為の後の沐浴も義務付けています。至高のアッラーはこう仰いました:

あなた方が(性交渉後の)不浄な状態にあるならば、(水で体を)洗い清めよ。(クルアーン 5:6)

またその他にも金曜礼拝やイード(年に二度の祭日)といった集団礼拝の折や、ハッジ(大巡礼)やウムラ(小巡礼)などの際にも、沐浴は強く推奨されています。

B) 衛生の保護

以下のような行為によって行われます:

1

食事前後に手を洗浄し、食後には口をゆすぐこと。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:

「食後に歯の間に何か挟まっていたら、それを除去するようにせよ。また口の中に食事の残りがまだあるのなら、それを飲み込むようにせよ。そのようにすれば、その者はよいことを行うことになるだろう。そしてもしそうしないのなら、それでも害はないであろう。」(アブー・ダーウードの伝承)

2

口と歯を清潔に保つこと:預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:

「もし私のウンマ(共同体)にとって難儀とならなかったとしたら、私は各礼拝前にスィワークを命じたであろう。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)*「スィワーク」とは、歯磨き用に用いる、ある特定の種類の小枝のこと。

3

細菌や汚物の温床となる可能性のある場所を清潔に保つこと:預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:

「フィトゥラ(人の自然の天性にそぐう物事)には五つある:割礼。陰毛を剃ること。腋毛を抜くこと。爪を切ること。口ひげを切ること。」(アル=ブハーリーの伝承)

4

合法的で良性であり、汚染されてはいない飲食物を摂取すること:至高のアッラーはこう仰いました:

信仰する者たちよ、われら(アッラーのこと)があなた方に与えたよきものを食べよ。そしてあなた方が本当にかれ(アッラー)を崇拝するのなら、かれに感謝せよ。(クルアーン 2:172)

イスラームは人が過度の摂取ではなくほどほどに、良性で汚れてはいないものを楽しむことが出来るような規準を設けています。過度の摂取は健康を害します。至高のアッラーはこう仰いました:

…そして飲みかつ食べよ。しかし浪費してはいけない。実にかれ(アッラーのこと)は浪費を愛で給わらないのだから。(クルアーン 7:31)

また預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は以下に示すように、食べる時の作法に関しても説明しています:

「人間が満たす最悪の器とは、その胃に他ならない。アダムの子ら(人類)は、背中を真っ直ぐに支えるだけの(少量の)食事で十分なのである。しかしもしやむを得ない場合には、(胃の)三分の一を食事に、そしてもう三分の一を飲み物に、そしてもう三分の一を(空っぽのままにして)呼吸のために充てるのだ。」(アッ=ティルミズィーとイブン・マージャの伝承)

5

イスラームは死肉や血、豚肉や酩酊を及ぼす物質、麻薬や煙草などの不浄な物質や汚物を扱うことを禁じています。人は健康を維持しなければなりません。 至高のアッラーはこう仰いました:

あなた方に禁じられたものは、(イスラーム法に則って屠殺されなかった)死体、(流れる)血液、豚肉、アッラー以外の名において屠られたものである。しかしやむを得ない状態にある者は、(その摂取において)度を越さず、(それを口にするのは、他に合法なものがない場合のみであるという)法を超えない限りにおいて(それを口にしても)罪はない。実にアッラーはお赦し深く、慈悲深いお方である。(クルアーン 2:173)

また至高のアッラーは、こうも仰いました:

信仰する者たちよ、酒と賭け事、偶像とアル=アズラーム*は悪魔の行いであり、不浄である。ゆえにそれらを避けるのだ。(そうすれば)あなた方は成功するであろう。シャイターンは酒と賭け事をもって、あなた方の間に敵意や憎悪をもたらし、そしてあなた方をアッラーの念唱や礼拝から遠のけたいのである。一体あなた方は(それらを)止めないというのか?(クルアーン 5:90-91)*「アル=アズラーム」とは、当時賭け事やくじ引きに使われていた火打石のことであると言われます。

6

レスリングなどの有益なスポーツをたしなむこと:アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)自身、ラカーナという名前の男とレスリングをした伝承が残っています(アル=ハーキムの伝承)。

また水泳や乗馬、弓矢なども推奨されています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)に最も近しい教友の一人だった、二代目カリフのウマル・ブン・アル=ハッターブはこう言いました:

「あなた方の子供に弓と水泳と乗馬を教えなさい。」

7

病気の治療を求めること:アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「アッラーは病と共に、その治療薬も創造された。全ての病には治療薬がある。しかし禁じられた物にその治療を求めてはならない。」(アブー・ダーウードの伝承)

8

イスラームは崇拝行為を命じていますが、それは魂に滋養を与えます。崇拝行為による滋養を阻まれた魂は、苦悩の中にあるのです。至高のアッラーはこう仰いました:

信仰し、その心がアッラーのズィクル(唱念)で平穏である者たち。アッラーのズィクルによって心が平穏にならないことがあろうか。(クルアーン 13:28)

イスラームは休息や栄養補給、結婚などの肉体的要求をおろそかにしたり、あるいはその権利を否定したりすることを罪と見なします。教友アナス・ブン・マーリクはこう伝えています:

「三人の男がアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)の妻たちのもとにやって来て、彼の崇拝行為の様子について訊ねました。彼らはそれについて聞くと、自分たちの崇拝行為の至らなさを痛感してこう言いました:“預言者は過去と未来の罪を赦されたお方だというのに、(それにも関わらず崇拝行為に非常に献身的であった)彼と比べたら、私たちは一体どうなるというのか?”それで彼らの内のある者はこう言いました:“私は一晩中礼拝するぞ。”またある者はこう言いました:“私は毎日断食しよう。”そして別の者はこう言いました:“私は女性を遠ざけ、一生結婚しまい。”するとこのことを聞きつけた預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)がやって来て、こう言いました:“あなたたちがそのようなことを言うのは、一体どうしたことか?アッラーに誓って。私はあなた方よりもアッラーを畏れているが、断食すれば(それを解いて)食べもする。また礼拝(のために夜を明かすこと)もすれば、(そうせずに)眠りもするし、結婚もする。私の慣行から背く者は、私の仲間ではないのだ。”」(アル=ブハーリーの伝承)

12

イスラームは知識の探求を励行します。至高のアッラーはこう仰いました:

言え、「一体知っている者と知らない者は等しいというのか?」(クルアーン 39:9)

またイスラームは無知と無学を非難します。アッラーはクルアーンの中で、モーゼがこう言ったと仰ります:

私はアッラーに、無知な輩となることからのご加護を乞う。(クルアーン 2:67)

またムスリムの日常生活や現世と来世に関する諸事についての知識のように、全てのムスリムが学ぶことを義務付けられる類の知識もありますが、その一方で集団の内の誰かがそれを知っていれば十分である類の知識もあります。アッラーは預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)に対し、この現世においては知識以外に追求に値するものはない、と仰っています:

そして言え、「主よ、私の知識をお増やし下さい。」(クルアーン 20:114)

またイスラームは、学者や知識を探求する者に特別な敬意を払うように命じています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「年長者を敬わない者と年少者を慈しまない者、そして学者に敬意を払わない者は私たちの内の者ではない。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

そして特に学者は栄誉高い地位を与えられています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「敬虔でイバーダ(崇拝行為)に熱心な男に対する学者の優越性は、あなた方の内で最低の位階にある者に対する私の優越性のようなものである。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

知識の拡大とその獲得の励行のため、イスラームは知識の探求と学習、その教授を天国へ続く道において奮闘し続けることによって報酬を受ける者に例えています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「知識を探求に出る者は帰還するまで、アッラーの道に奮闘しているものと見なされる。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこうも言っています:

「知識を求めて道行く者は、アッラーが彼に天国への道を易しくしてくれるであろう。また人々が座って偉大かつ荘厳なるアッラーをズィクル(唱念)するならば、天使たちがその周りを飛翔し、慈悲が彼らを覆い、静寂が彼らのもとを訪れ、そしてアッラーはかれの御許にある一団(天使たち)のもとで、彼らを褒め称えるであろう。」(ムスリムの伝承)

イスラームは宗教的知識だけではなく、全ての有益な知識を求めることを推奨します。このことはムスリム共同体にとっての集団義務であると共に、一種の崇拝行為とも見なされます。至高のアッラーはこう仰いました:

あなた方はアッラーが天から雨を降らせ、それでもって色とりどりの果実を実らせられるのを見ないのか?また山々には白や赤、漆黒など異なった色の縞模様がある。また人々や動物や家畜もまた、それぞれ色が異なっている。実にそのしもべの中でも、知識ある者たちこそがアッラーを畏れるのだ。アッラーこそはこの上なく偉大でお赦し深いお方。(クルアーン 35:27-28)

このクルアーンの句は人を熟考させ、これらの物を創造した創造主の存在の確信へといざないます。また私たちが、アッラーがこの宇宙に創造した全ての物から利益を得ることについても教示しています。この句に示されている学者とは、宗教学者のみではないことは明らかです。アッラーがこの宇宙に散りばめた諸々の謎を発見する能力を備えた、宗教以外の分野の学者もこの中に含まれるのです。

例えば科学や力学を通して雲の形成や降雨について学んだり、農学を通して農作物や果実の栽培法や収穫量の増加法を学んだり、また地学によって山について学んだり、遺伝学を通して人間や動物の形成について学ぶ者などが挙げられるでしょう。

13

イスラームは人が自分の行いを常に振り返り、省みることを勧めます。このことはムスリムが努力し、自らの最善を尽くし、かつアッラーのお怒りを回避することにつながります。ムスリムは、アッラーが彼らの行いを全てお見通しであることを熟知しています。彼らが宗教的に命じられたことを行い、禁じられたことを回避するのはそれゆえなのです。ムスリムが窃盗から自らを抑制するのは他人を恐れてではなく、アッラーを恐れるがゆえなのです。このようにイスラームは人間の内面と外面をバランスよく調和させます。至高のアッラーはこう仰いました:

例えあなたが声を大にして喋ったとしても、実にかれ(アッラーのこと)は秘め事も、そしてこれから起こることさえもご存知なのである。(クルアーン 20:7)

また預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は、イフサーンという位階についてこう述べています:*「イフサーン」とは常にアッラーの監視を感じつつ、かつその行いが純粋にアッラーのみに対して行われるような者が達する位階のことです。

「アッラーがまるで眼前におられるかのように、かれを崇めることである。そして例えかれが見えなくとも、かれはあなたをご覧になられるのだ。」(アル=ブハーリーの伝承)

自らの行動や振る舞いを監視することは、以下に挙げるような信仰からもたらされる結果です:

A)

アッラーのみが真に崇拝されるべき存在であるという信仰:かれこそはあらゆる面において完璧であり、全世界の全ての出来事を把握し、かつかれがお望みにならないことは起こり得ません。至高のアッラーはこう仰いました:

かれ(アッラーのこと)は地に入るものも、そこから出るものも、また天から降るものも、そこに昇っていくものもご存知なのだ。そしてあなた方がどこにいようと、かれはあなた方と共にある。アッラーはあなた方の行いを全てご覧になられているのだ。(クルアーン 57:4)

アッラーの知識は物質的なものから、不可知なものにまで及びます。かれは人の僅かな心の動きや、その魂が内面でささやくことすらご存知なのです。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてわれら(アッラーのこと)が人間を創ったのであり、われらは彼がその胸中で話すことも知っている。われらは彼の頸静脈よりも、彼に近いのである。(クルアーン 50:16)

B)

アッラーが審判の日に全ての者を復活させるという信仰: 至高のアッラーはこう仰いました:

不信仰者たちは、(死後)蘇らされることなどはないと思い込んでいる。言え、「いや、私の主にかけて。あなた方は蘇らされ、(現世での)所業を通達されるのだ。そんなことはアッラーにとって他愛もないことである。(クルアーン 64:7)

C)

人は自分の行ったことでのみ、報奨や罰を受けるという信仰:至高のアッラーはこう仰いました:

…そして(罪業の)重荷を背負う魂は、他の(魂が犯した罪業の)重荷まで背負わされることはない。 (クルアーン 6:164)

全ての者は善行であれ悪行であれ、またそれがいかに僅少なものであれアッラーの御前で現世での全ての言行を清算されます。そして善行に対しては報奨で、罪に対しては懲罰でもって報われるのです。 至高のアッラーはこう仰いました:

それで小蟻一匹の重さほどでも善行を行った者は、(審判の日)それを目の当たりにする。そして小蟻 1 匹の重さほどでも悪行を行った者は、(審判の日)それを目の当たりにする。(クルアーン 99:7-8)

D)

アッラーとその使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)に対する服従は、他の何よりも優先されます。至高のアッラーはこう仰いました:

言え、「あなた方の父親や子息、兄弟姉妹や配偶者、近親やあなた方の稼いだ財産、またあなた方が不景気になることを恐れている商売や、あなた方の意に適った住まいがアッラーとその使徒、そしてその道における奮闘よりもあなた方にとって愛すべきものであるのならば、アッラーが事を決行されるまで待つがよい。アッラーは放縦な民をお導きにはなられないのだ。」(クルアーン 9:24)

14

イスラームにおいて善行に対する報奨は数倍にも増幅しますが、悪行に対する報いは倍増されたりせずにそのまま清算されます。至高のアッラーはこう仰いました:

一つの善行を行った者には、その十倍(の報奨)がある。そして一つの悪行を働いた者は、それと同様の報いしか受けない。彼らが不正を被ることはないのだ。(クルアーン 6:160)

また善行はそれを実行するまでは至らなかったとしても、それをしようと思い立っただけで報奨の対象となります。更にイスラームにおいては、悪行を思い立ってもアッラーを畏れて実行を控えるならば、それによって報奨を受けます。というのもその者はアッラーゆえにその悪行を放棄したからです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、至高の主がこう仰ったと伝えました:

「善行を欲する者は例えそれを実行しなくても、アッラーがそれを一つの完全な善行として書き留められよう。そしてもしそれを欲し、かつ実行するのであれば、偉大かつ荘厳なるアッラーはそれを十倍から七百倍まで倍増させた形で書き留められよう。一方悪行を思い立ってもそれを実行しない者は、アッラーが彼に一つの善行を書き留められよう。そしてもしそれを思い立って実行したら、アッラーはそれを一つの悪行として書き留められるのだ。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)

また自らの魂の欲望を満足させることは、その意図を正すならば一つの崇拝行為へと昇華します。例えば身体の健康を保持したり、あるいは生活の糧を稼いだり、家族や扶養している親族らをまかなったりするためにするために飲食することは崇拝行為の一種と見なされ、報奨の対象となります。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「アッラーからの報奨を望みつつその家族に出費する者は、サダカ(施し)をしているに等しい。」(アル=ブハーリーの伝承)

また意図さえ良いものであれば、ムスリムが行う全ての行いはサダカ(施し)ともなり得ます。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:

「全てのムスリムは施しをしなければならない。」教友たちは言いました:「もし施す物がなかったらどうしますか?」すると彼は言いました:「両腕を用いて自らを益する仕事をし、そこから施すのだ。」彼らは言いました:「もしそれも出来なかったら?」彼は答えました:「苦境にある者を援助するべきだ。」彼らは言いました:「もしそれさえも出来なかったら?」彼は答えました:「何か良いことを命じるべきだ。」彼らは言いました:「もしそれも出来なかったとしたら?」彼は答えました:「悪行を避けさせよ。それが彼にとってのサダカとなるだろうから。」(アル=ブハーリーの伝承)

15

イスラームにおいては、もし罪を犯した者が真に悔悟し、二度とそのような行いは繰り返すまいと固く決心するならば、記録された悪行は善行と変換されます。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてアッラーと共に他のものを(崇拝して)祈ったりせず、また正当な理由なしにはアッラーが禁じられた生命をあやめたりせず、そして姦淫したりすることもない者(は、慈悲深きお方の正しいしもべである)。そのようなことを行う者は、その罪(による報い)を受けるであろう。審判の日、彼には懲罰が倍増され、辱められたままそこに永遠に留まる。但し悔悟して信仰し、正しい行いをする者に関しては、アッラーがその悪行を善行でもって取り換えて下さるであろう。アッラーはお赦し深く、慈悲深いお方。(クルアーン 25:68-70)

これはムスリムのアッラーに対する権利ですが、一方その権利を侵してしまった他人に対しては、彼らに許しを請い、かつその権利を回復させる義務があります。またイスラームは罪を犯した者の知性に語りかけ、悔悟と罪の放棄を勧めることによってその混乱を取り除くのです。至高のアッラーはこう仰いました:

言うのだ、「(アッラーはこう仰っている:)罪深いわがしもべたちよ、アッラーのご慈悲に絶望してはならない。」アッラーは全ての罪をお赦しになられる。実にかれは赦し深く、慈悲深いお方である。(クルアーン 39:53)

またイスラームの教えは、悔悟への道を容易なものとします。至高のアッラーはこう仰いました:

悪事を行ったり、自らに不正を働いたりする者で、その後アッラーにその(罪の)お赦しを乞う者は、アッラーがお赦し深く慈しみ深いことを見出すであろう。(クルアーン 4:110)

これらは全てムスリムに関してのことですが、一方ユダヤ教やキリスト教から新しく改宗したムスリムに関して言えば、彼らの得る報奨は倍化されたものとなります。というのも彼らは彼らの使徒たちへの信仰と同様に、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)のことも信仰したからです。至高のアッラーはこう仰いました:

われら(アッラーのこと)がそれ以前に啓典を授けた者たちは、それを信じよう。それ(クルアーン)が朗誦されれば、彼らはこう言うのだ:「私たちはこれを信じました。これこそはわれらが主からの真理です。私たちはこれ以前からムスリム(アッラーの教えを受け入れて従った者)でした。」彼らは彼らが辛抱したことによって、倍の報奨を与えられよう。彼らは悪行を善行でもって返し、われらが恵んだ物から施すのだ。(クルアーン 28:52-54)

更にアッラーは、イスラームに改宗することによって彼らが以前に犯した全ての罪をお赦しになります。教友アムル・ブン・アル=アースはイスラームを受け入れるにあたって、アッラーが彼の全ての罪を帳消しにすることを条件付けましたが、このことに関してアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「イスラームが、それ以前に犯した全ての罪を消し去ってくれることを知らないのか?」(ムスリムの伝承)

16

イスラームは、ムスリムが現世での生活において行った善行に対する報奨を、死後に至っても受け続けることを保証しています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:

「人は死んでしまえば、もう(報奨の対象となる)行いをすることが出来ない。但し次の三つは別である:(つまりそれは、その利益が死後も)継続するサダカ(施し)、または人を益する知識、あるいは(その死後も)彼のために祈ってくれる正しい子息である。」(ムスリムの伝承)

またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこうも言っています:「正しい導きへといざなう者には、それに従った者が得る報奨と同じ報奨が彼にも与えられる。そしてそれによって彼ら(導きに従った者たち)の報奨からは少したりとも差し引きされることはない。そして迷妄へといざなう者には、それに従った者が得る罪と同じ罪が彼にも与えられる。そしてそれによって彼ら(導きに従った者たち)の罪からは少したりとも差し引きされることはない。」(ムスリムの伝承)

ムスリムが善行や正義への勧誘、また悪との戦いやそれに対する警告などによって自らの属する社会の間違いを矯正しようと努力するのは、このようなことが一つの理由となっていると言えるでしょう。

17

イスラームは知性や思索を尊び、それを相応しい形で使用することへといざなう教えです。至高のアッラーはこう仰いました:

実に天と地には、信仰する者にとっての多くのみしるしがある。またあなた方自身の内側と、かれ(アッラー)が散開させられる生物の内にも、確信する民へのみしるしがある。また昼夜の交替と、アッラーが天から下される恵みの糧。かれはそれでもって死んだ大地を蘇らせる。そして風向きの変化。(それらは皆)理性ある民へのみしるしなのだ。(クルアーン 45:3-5)

クルアーンはその数多くの章句において理性に訴えかけ、また人を思索へと招きます。アッラーはクルアーンの中でたびたび、彼らは理解しないのか?、彼らは熟慮しないのか?、彼らは吟味しないのか?と仰っています。イスラームはこのように理性に重きを置く一方で、その使用範囲には制限を定めています。人は不可知の領域に関することにおいて理性を無駄に用いるのではなく、物理学的な有形の物事に関してそれを利用するべきなのです。

イスラームが理性の地位を貶めずに使用するのを勧めることを示す好例として、知識や正しい導きもなく他人に盲従することへの非難が挙げられます。至高のアッラーはこう仰いました:

そして彼らに「アッラーが下されたものに従え」と言われれば、彼らは言う:「いや、私たちは私たちの祖先がそうであったところのものに従う。」彼らの祖先は物事を理解もしなければ、導かれてもいなかったではないか?(クルアーン 2:170)

18

イスラームはアッラーが人間を先天的にそう造られたところの、フィトゥラ(天性)に沿った教えです。それゆえイスラームは人間の自然な本性に矛盾しません。至高のアッラーはこう仰いました:

…ゆえにあなたの顔を純正な宗教へと向けるのだ。(それは)人々がそれを元に創造されたところのアッラーのフィトゥラ。アッラーの創造に改変はない。これこそ正しい宗教である。しかし多くの者たちは分からないのだ。(クルアーン 30:30)

このフィトゥラは、時に外的要因によって損なわれます。そしてそうすることで、正しい道から逸れて行くのです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「全ての子供は真のフィトゥラの状態で誕生する。しかしその両親が彼をキリスト教徒やユダヤ教徒、ゾロアスター教徒に変えてしまうのである。」(アル=ブハーリーの伝承)

イスラームこそは、人を真っ直ぐな正しい道へと導いてくれる教えなのです。至高のアッラーはこう仰いました:

言え、「私の主は私を、真っ直ぐな道へとお導き下さった。(それは)正しい宗教、アブラハムの純正な教え。そして彼 はシルク(アッラーに何かを並べて崇拝すること)の徒ではなかったのだ。」(クルアーン 6:161)

イスラームの教えは全て、正しい状態にある理性には矛盾しません。むしろ正しい理性はイスラームの教えの真実と適合性、そして利益を証言します。イスラームが命じ、禁じるものは全て理に適ったことなのです。イスラームはそれが絶対的、あるいは相対的に利益があるものでない限り、何かを命じることはありません。禁じられた物事も同様で、イスラームはそれ自体が悪であるか、あるいはその利益よりも悪性の方が勝るような物事でない限り、何かを禁じたりはしません。このことはクルアーンと預言者ハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の言行集を吟味してみると、明らかになります。

19

イスラームはアッラー以外の被造物に対する崇拝や、あるいはかれと何ものかを併置することから、アッラーのみへの崇拝へと人間を解放します。その対象が使徒であろうと、天使であろうと、それ以外のものであろうと違いはありません。このことはアッラー以外の何ものも害益をもたらしたり、糧を供給したりする権威がないという事実に基づいています。至高のアッラーはこう仰いました:

そして彼らはかれ(アッラー)を差し置いて他の崇拝物を配するが、それらは創造も出来なければ、それらこそが被造物なのである。またそれらは害する力を持ち合わせてもいなければ、益することも出来ない。そして死も生も、復活も持ち合わせてはいないのだ。(クルアーン 25:3)

また全ての物事は、アッラーの御手に委ねられています。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてアッラーがあなたに何らかの災いを下されるならば、かれ以外にそれを払拭される方はいない。またかれがあなたに何らかの幸いをお望みになられたら、その恩恵を突き返すことの出来るものはいない。かれはそのしもべの内の、かれがお望みの者にそれを与えられる。かれはこの上なくお赦し深く、慈悲深いお方である。(クルアーン10:107)

アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)といえども、このことから例外視はされていません。もし彼が例外視されれば、他の者にもそれが適用されるかもしれないでしょう。至高のアッラーはこう仰いました:

言え(ムハンマドよ)、「私はアッラーがそうお望みになられたものを除いては、何かを益する力も害する力も有してはいない。もし私が不可知の領域を関知していたら、よいことばかりを集め、災難は回避することが出来ただろう。私は信仰する民への一人の警告者、福音者に過ぎないのである。」(クルアーン 7:188)

イスラームは人のストレスや恐怖、混乱などをその原因を解決することにより和らげ、また解放しました。例を挙げてみましょう:

アッラーは、死がかれの御手に委ねられている避けることの出来ない事実であることを明言し、人間の死に対する恐怖を和らげています。至高のアッラーはこう仰いました:

アッラーのお許しがない限り、人はこの世を去ることがない。(人の寿命は、運命の碑版に)定め記されているのだ。 (クルアーン 3:145)

多くの者たちは死から逃れようとしますが、それは必ずややって来るものなのです。至高のアッラーはこう仰いました:

言え、「あなた方が逃げようとしている死は、必ずあなた方のもとを訪れるのである。」(クルアーン 62:8)

アッラーは人間を貧困や欠乏の恐れから、自由にしました。かれはこう仰ります:

地上の全ての生物で、アッラーにその糧を依存していないものは何一つとして存在しない。かれはそれらの居場所も行き先もご存知である。全ては明白な書の内に(記録されて)あるのだ。(クルアーン 11:6)

また病気やその他の災難に関して、至高のアッラーはこう仰っています:

地上で、そしてあなた方の内に起こるいかなる災難も、それが創造される前にアッ=ラウフ・アル=マフフーズ(護られた碑版)の中に定められていないことはないのである。実にそのようなことはアッラーにとって容易いことなのだ。それはあなた方が過ぎ去ったことに後悔せず、(アッラーが)あなた方に与えられたものにおいて悦に入らないようにするためである。アッラーは全ての自惚れ屋と高慢な者を愛でられない。(クルアーン 57:22)

また他の被造物からの害悪に関して、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:

「アッラーの掟を犯すことから、あなた自身を守るのだ。そうすればアッラーがあなたを守って下さろう。アッラーの掟を犯すことから、あなた自身を守るのだ。そうすればアッラーはあなたを導き、かつ現世と来世における災厄からあなたを守って下さろう。また、順境においてアッラーを想起するのだ。そうすればアッラーはあなたが逆境にある時に、あなたを気に留めて下さろう。何かを求めるのならばアッラーにこそ求め、援助を乞うのならアッラーにこそ乞え。全ての出来事は既に記録されているのだ。全ての者があなたを益しようと一丸になっても、アッラーがあなたに対して既に定められたこと以外は何一つあなたを益することがない。また全ての者があなたを害しようと一丸になっても、アッラーがあなたに対して既に定められたこと以外は何一つあなたを害することがない。あなたが忍耐出来ることを確信するのなら、そうするのだ。そしてそうでなくても、忍耐せよ。そうすればあなたが厭うそれらの物事は、あなたをよきものへと導いてくれるであろう。勝利は忍耐と共に、そして苦の後には楽があることを知れ。」(アル=ハーキムの伝承)

20

イスラームは現世的諸事においても、宗教的諸事においても、中庸性を勧めます。至高のアッラーはこう仰いました:

こうしてわれら(アッラーのこと)は、あなた方を公正かつ最善の民とした。それはあなた方が人々の証人となり、そして使徒(ムハンマド)があなた方の証人となるためなのである。(クルアーン 2:143)

またイスラームは、易しさの宗教でもあります。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「アッラーは、物事を困難で厄介にするために私を遣わされたのではない。かれは私を教師として、そして物事を易しくするために遣わされたのだ。」(ムスリムの伝承)

ゆえにイスラームは、ムスリムが出来るだけ物事を容易にするように勧めています。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:

「挨拶をせよ。そして物事が人々にとって困難になるようにしてはいけない。物事を易しくし、厄介にするのではない。」(ムスリムの伝承)

イスラームは寛容さと親切の教えです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)の妻の一人であったアーイシャは、ユダヤ教徒の一団が彼のもとを訪問した際に、彼に対してこう言ったと伝えています:

「あなたに死が訪れますよう。」アーイシャはこれに対し、こう応えました:「あなた方にも、死と呪いがありますよう。」すると預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:「アーイシャよ、もっと穏やかに。アッラーはいかなる場合でも、優しさを愛で給われるのだから。」アーイシャは言いました:

「アッラーの使徒よ、あなたは彼らが何をる。そしてアッラーにとって最善の行いとは、他のムスリムに幸福を与えたり、慰安をもたらしたり、また債務の肩代わりをしたり、空腹を満たしてやったりすることである。私は一ヶ月の間モスクに閉じこもって献身的に崇拝するよりは、ムスリムと共に歩いてその必要を満たしてやることを好む。その怒りを抑える者は、アッラーによってその個人的諸事をかくまってもらえるであろう。また報復出来るにも関わらずその憤怒を抑える者は、審判の日にアッラーによってその心を喜びで満たしてもらえるであろう。他のムスリムの必要が満たされるまでその者と共に歩く者は、人々の足が揺らぐその日(審判の日のこと)にその足場を堅固にしてもらえるのだ。実に悪い作法とは、あたかも酢が蜂蜜を駄目にしてしまうように人の善行を台無しにしてしまう。」(アッ=タバラーニーの伝承)

またイスラームは困難ではなく、節度を重んじる教えです。至高のアッラーはこう仰いました:

アッラーは、人が背負い切れないような重荷をお与えにはならない。人は自ら益を稼ぎ、また自ら害を稼ぐのだ。(クルアーン 2:286)

イスラームの全ての命令事は、この理念の上に基づいています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「私が禁じたことを避け、私が命じたことは出来る限りの範囲で行うのだ。あなた方以前の者たちは質問への固執と、彼らの使徒への不服従によって破滅したのであるから。」(ムスリムの伝承)

この件において最も良い例は、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)のもとを訪れてこう言ったある教友の話でしょう:

「 アッラーの使徒よ、私はもうだめです。」 預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:「何がだめなのだ?」(男は)言いました:「ラマダーン月に妻と交わってしまいました。」(預言者は)言いました:「奴隷を一人解放出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」(預言者は)言いました:「それでは二ヶ月間連続してサウム(断食)することは出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」(預言者は)言いました:「それでは六十人の困窮者に食事を振舞うことは出来るか?」(男は)言いました:「いいえ。」それから(男は)座りました。すると預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)のもとに、ナツメヤシの実が入った袋が運んで来られました。(預言者は男に)言いました:「これでもって施すがよい。」(すると男は)言いました:「私たちより貧しい者に、ですか?二つの溶岩地帯の間(マディーナのこと)には、私たちよりもそれを必要としている者はいないというのに。」すると預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は犬歯が露わになるほど笑われ、こう言いました:「行くがよい。そしてそれでお前の家族に食べさせよ。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)*マダーン月の昼間には飲食だけでなく、性交渉も禁じられます。

イスラームの崇拝行為における命令は全て、人の能力に応じて課されています。人が能力以上のものを課されることはありません。ムスリムはある種の義務行為や崇拝行為において、以下に示すような場合にはそれを免除されることもありえます:

  1. 礼拝はそうすることが出来る場合において、立って行うことが義務となっています。しかしもし立って行うことが出来ない場合、座って行うことが出来ます。そしてもしそれすらも出来なければ、横になって行います。そしてそれさえも叶わなければ、仕草だけで行うことが出来るのです。
  2. もし要求される最低限の財産も所有していない場合、ザカー(義務の浄財)の拠出は義務付けられません。逆にその者が貧しい者であれば、浄財の配当を受ける権利を有します。
  3. ムスリムは病気の状態にある時、義務の断食を免除されます。同様に女性は月経や、産後の出血の状態にある時に義務の断食を免除されるのです。
  4. 肉体的、あるいは経済的能力のない者には、ハッジ(大巡礼)の義務は課されません。至高のアッラーはこう仰いました:

    そしてそうすることが出来る者には、その館(カアバ神殿)を訪問するアッラーへの義務がある。(クルアーン3: 97)

また飢えのために瀕死の状態にある者は、その必要に応じて普段は禁じられている飲食物‐豚肉や酒類など‐を摂取することが許されます。至高のアッラーはこう仰いました:

しかしやむを得ない状態にある者は、(その摂取において)度を越さず、(それを口にするのは、他に合法なものがない場合のみであるという)法を超えない限りにおいて(それを口にしても)罪はない。(クルアーン 2:173)

21

イスラームは全ての天啓宗教に、その本来の形において敬意を払います。そしてムスリムはそれらを信仰し、

またそれらをもたらした使徒たちを愛し尊重しなければなりません。至高のアッラーはこう仰いました:

アッラーとその使徒たちを信じず、アッラーと彼らの間を分け隔てようとする者たち。そして「私たちは(使徒たちの)これこれの者たちは信じるが、他の者たちは信じない。」などと言って、その(信仰と不信仰)間に道を見出そうとする者たち。彼らこそは真に不信仰者である。(クルアーン 4:150)

またイスラームは、他の宗教や信仰を貶すことを禁じています。至高のアッラーはこう仰いました:

そして彼らがアッラーを差し置いて祈っているものを、貶してはならない。そうすることで彼らが無知から、誤ってアッラーのことを貶してしまわないように。(クルアーン 6:108)

イスラームはむしろ、他の宗教に属する者たちと良い形で、英知と品行をもって話し合うことを命令しています。至高のアッラーはこう仰いました:

英知とよき訓戒をもって、あなたの主の道へといざなえ。そしてよき手法を用いて彼らと議論するのだ。実にあなたの主はその道を迷い外れた者のことも、よく導かれた者のこともよくご存知である。(クルアーン 16:125)

またイスラームはアッラーが教示した方法論でもって、実り溢れる話し合いを追求することを勧めます。至高のアッラーはこう仰いました:

言え、「啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)よ、私たちとあなた方との間の正義の言葉へとやって来るのだ。(その言葉とは:)私たちがアッラー以外の何ものをも崇拝せず、かれに何ものをも並べたりしないこと。そしてアッラーを差し置いて、自分たちの内の誰かを主としたりしないこと。」それでもし彼らが(この期に及んでその言葉から)背くのなら、言うのだ:「私たちがムスリム(主に対して真に服従する者)であると、証言せよ。」(クルアーン 3:64)

22

イスラームはその社会内において、真の形において平和の宗教です。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「真の信仰者とは何か教えてやろうか?それは他人の生命と財産を脅かさない者だ。そしてムスリムとは、他人がその手と口によって害されないような者のことだ。また真のムジャーヒド(アッラーの道における戦士)とは、アッラーへの服従において奮闘努力する者のことである。そしてムハージル(イスラームゆえに移住する者)とは、罪深い行いを放棄する者のことなのだ。」(アフマドとイブン・ヒッバーンの伝承)

そしてそれは世界的レベルでも同様です。ムスリムと非ムスリム社会の間の相互関係は、権利の不可侵という基礎に基づいているからです。至高のアッラーはこう仰いました:

信仰者たちよ、イスラームという服従を余すことなく受け入れよ。そして悪魔の歩みに従ってはならない。彼らはあなた方にとって明白な敵なのだから。(クルアーン 2:208)

しかし自分の権利を侵害された時、ムスリムは沈黙しているわけではありません。至高のアッラーはこう仰いました:

それであなた方の権利を侵す者に対しては、あなた方がされたのと同様の形でその権利を侵すのだ。(クルアーン 2:194)

また平和を優先させるため、イスラームは戦争時には停戦の申し出を受け入れ、敵がそれを望む際には戦いを止めることを命じました。至高のアッラーはこう仰っています:

それでもし彼らが停戦を望むのなら、(それに応じて)停戦せよ。そしてアッラーに全てを委ねるのだ。かれは全てをお聞きになり、ご存知になるお方。(クルアーン 8:61)

しかしイスラームは平和維持を標榜する一方で、ムスリムの名誉が貶められたり、あるいは彼らが辱めを受けることには甘んじていません。ムスリムは平和だけでなく、自らの名誉を守ることも命じられているのです。至高のアッラーはこう仰いました:

ゆえに屈辱に甘んじて停戦を呼びかけてはならない。あなた方こそ勝利するのである。アッラーはあなた方と共にあるのだ。かれはあなた方の行いを不当には扱われない。(クルアーン 47:35)

23

イスラームにおいて、改宗を押し付けるといった類いの強制はありません。人は自分の満足がいった時にのみ、改宗するべきです。強制はイスラームとその教えを広める手段ではありません。至高のアッラーはこう仰いました:

宗教に強制はない。実に正道と邪道は明らかにされたのである。(クルアーン 2:256)

何と言っても、信仰と導きはアッラーの御手にのみ委ねられているのです。至高のアッラーはこう仰いました:

あなたの主がお望みになれば、地上の全ての者が信仰に入ったであろう。一体あなたは人々が信仰者となるように強制するというのか?(クルアーン 10:99)

24

イスラームの長所の一つとして、イスラーム社会に属する啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)らが彼らの宗教を実践することを禁じないということが挙げられます。教友アブー・バクルはこう言いました:

「あなた方は僧院で献身的に仕える者たちを目にしよう。彼らと、彼らが仕えているものを放っておくのだ。」(アッ=タバリーの伝承)

また彼らはイスラーム社会にあっても、彼らの間で禁じられていない飲食物を摂取する自由を与えられています。彼らの豚や酒類が損害を受けることはありません。また婚姻や離婚、売買などの社会的諸事においても、彼らはイスラームが設けた指針と条件に添った形で、自分たちの宗教が定めた法に則る自由を与えられます。

25

イスラームは奴隷を解放することを強く推奨し、またその行為に多大な報奨を約束すると共に、それが天国に入る一つの手段であることを明らかにしています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「ムスリム(の奴隷)を一人解放する者は誰でも、アッラーがその体の全部分をその(解放された者の)体の全部分をもって地獄の業火から救って下さるであろう。」(アル=ブハリーとムスリムの伝承)

イスラームにおいて合法的な形で奴隷階級が生じるのは、戦争捕虜を通してのみです。これはムスリムの統治者がそれを命じた時に発生します。イスラームにおいて戦争捕虜は、アッラーが命じた特定の方法によって扱われるのです。至高のアッラーはこう仰いました:

(戦いで)不信仰者たちと出遭ったら、彼らを数多く殺すまで戦うのだ。そして(拘束するための縄で、捕虜を)しっかりと繋ぎ止めるのだ。その後は戦争が終わってから(それらの捕虜を)見逃してやるか、あるいは身代金と引き換えにせよ。(クルアーン 47:4)

一方でイスラームは、奴隷解放のための多くの手段を定めています。イスラームにおいて、奴隷解放はある種の罪の贖罪行為とされているのです。そのいくつかの例を挙げてみましょう:

  • 故意ではない殺人の贖罪:至高のアッラーはこう仰いました:

    信仰者が信仰者を殺害することなど、あってはならない。但し過失の場合は別で、誤って信仰者を一人殺してしまった者は被害者の遺族が赦免しない限り、信仰者の奴隷を一人解放し、そして(その男系親族相続人が)その遺族に血債を支払わなければならない。また(誤って殺害した者が)あなた方の敵である民の中にいた信仰者であったら、信仰者の奴隷を一人解放する。そして(誤って殺害した者が)あなた方との間に協定を結んでいる民であれば、(その男系親族相続人が)その遺族に血債を支払い、かつ信仰者の奴隷を一人解放する。そしてもし信仰者の奴隷がいなければ、アッラーへの悔悟として連続二ヶ月のサウム(斎戒、いわゆる断食を行う)。アッラーは全てをご存知になり、この上なく英明なるお方である。(クルアーン 5:92)

  • 誓いの破棄:至高のアッラーはこう仰いました:

    アッラーはあなた方が宣誓において、うっかり口を滑らせてしまったことに関してお咎めになることはない。しかしかれは、あなた方が(きちんと)成立させた宣誓(の不履行)に関して、あなた方をお咎めになるのである。(クルアーン 5:89)

  • 自分の妻を自らにとって非合法なものと見なすこと(ズィハール):至高のアッラーはこう仰いました

    そしてあなた方の内で妻に対しズィハールを行う者たちで、以前自分たちが言ったことを撤回しようと思う者は、互いに触れ合う前に奴隷を一人解放するのだ。(クルアーン 58:3) スラーム以前の無明時代における悪習で、夫がその妻に対し、「あなたは私の母同様だ」などという表現を用いて離婚すること(母親は男性にとって婚姻が禁じられている関係にある女性の筆頭であるため)。

  • ラマダーン月(断食月)の昼間に性交すること :教友アブー・フライラは、ラマダーン月の昼間にその妻と性交渉を営んでしまった男の伝承を伝えています。男がその旨をアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)に伝えると、彼はこう言いました:

    「あなたは(その贖罪として)奴隷を一人解放出来るか?」男は答えました:「いいえ。」そして彼はまた尋ねました:「それでは二ヶ月間連続して断食出来るか?」男は答えました:「いいえ。」すると彼は言いました:「それでは六十人の貧者に食事を施しなさい。」(ムスリムの伝承)*マダーン月の昼間には飲食だけでなく、性交渉も禁じられます。

  • またイスラームは、奴隷に暴力を振るった時の贖罪をその解放としました。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

    「奴隷を殴ったり叩いたりした者の贖罪は、その者を解放することである。」(ムスリムの伝承)

イスラームは次の話からも伺えるように、奴隷の解放を強く促しています:

イスラームは、奴隷がその主人に自らの身分の解放の契約を申し出た際、それを受諾することを勧めています。これはいわゆる

ムカータバという契約で、奴隷が主人と合意した一定の金額を支払うことにより、その身分を解放されるというものです。ある種の学者は奴隷がこの申し出をした際には、その主人はそれを受け入れなければならないという見解を示しています。その根拠は、次のクルアーンの句によっています:

そしてあなた方の右手が所有する者(奴隷のこと)の内でムカータバを望む者には、あなた方が彼らによきもの(宗教や生活手段など)を見出す限りそれを許すがよい。そしてアッラーがあなた方に授けられた財産の内から、彼らに施すのだ。(クルアーン 24:33)

またイスラームは、ザカー(義務の浄財)の受給資格者の対象として奴隷の解放を挙げています。至高のアッラーはこう仰いました:

ザカーは貧者と困窮者、ザカー(の徴収)に携わる者、(それによって)心に親愛が生まれそうな者、奴隷の解放、債務に苦しむ者、アッラーの道にある者、そして旅人に与えられる。(それは)アッラーからの義務である。アッラーは全てをご存知で、かつ英知溢れるお方。(クルアーン 9:60)

26

イスラームは女性の地位を高く位置づけ、高貴な存在と見なしています。女性を敬うことは、その者の高潔で優れた人格の印でもあります。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「最高の信仰を備えた者とは、最高の人格を備えた者である。そしてあなた方の内の最善の者とは、その妻たちに対して最善の者である。」(アッ=ティルミズィーの伝承)

イスラームは女性の人間的本質を援護しています。それで他の宗教に見られるようにアダムが天国から追放されたことでイブを咎めもしなければ、女性が罪の根源などともしてはいないのです。至高のアッラーはこう仰いました:

人々よ、あなた方を一つの魂(アダム)から創られ、次いでそれからその妻を創られ、そしてその二人から多くの男女を創り広げられたアッラーを畏れるのだ。そしてあなた方がかれにおいて同情し合うところのお方と、親戚の絆の断絶に対して身を慎め。アッラーは実に、あなた方の一部始終を見守られるお方である。(クルアーン 4:1)

イスラームは女性が男性よりも劣る、というような女性に対して向けられた非道な概念を否定します。もしそうだとしたら、男性の基本的な人権の多くは失われてしまうことでしょう。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:

「実に女性は男性の片割れである。」(アブー・ダーウードの伝承)

またイスラームは女性の栄誉と貞節を守ります。彼女たちを姦淫で訴える者は、それに対する証拠を提示出来ない限り、懲罰を受けることになります。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてムフサン23を姦淫で告発した後に四人の証人を呼んで来れない者は、八十回の鞭打ち刑にせよ。そして(その後、)その者の証言はもう永久に受け入れてはならない。彼らは放埓者なのである。(クルアーン 24:4)

イスラームは男性同様、女性にも相続権を保証します。実にイスラーム以前、アラビア半島において女性の相続権は認められていませんでした。至高のアッラーはこう仰いました:

多かれ少なかれ、男性には両親と近親が残したもの(遺産)からの取り分があり、女性にもまた両親と近親が残したもの(遺産)からの取り分がある。(アッラーは)義務の配当(を義務付けられたの)である。(クルアーン 4:7)

またイスラームは、女性がイスラーム法で定められた特定の指針に則りつつ、売買などで自らの財産を自由に処理したり管理したりすることを認めています。至高のアッラーはこう仰いました:

信仰者よ、あなた方が稼いだよきものと、われら(アッラーのこと)が大地からあなた方に恵んだものから施すのだ。(クルアーン 2:267)

また女性にも教育の権利を認めています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「知識の習得は全ムスリムの義務である。」(イブン・マージャの伝承)

また女性は十分で適切な養育を受けなければなりません。そしてそうすることは、天国の報奨を受ける一つの原因につながります。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「三人の娘を持つ者で彼女らを守り、世話をし、慈悲深くある者は、必ずや天国に入るであろう。」するとある者が言いました:「アッラーの使徒よ、もしそれが二人の娘だったら?」彼は答えました:「二人でも同様である。」(アル=ブハーリーの伝承)

27

イスラームは精神的にも身体的にも、清浄さを尊ぶ宗教です。精神的清浄さには以下のような物事が含まれます:

  • アッラーに何ものかを配するという穢れからの清浄さ:至高のアッラーはこう仰いました:

    実にシルク*は非常な罪悪である。(クルアーン31:13) *「シルク」とは、アッラーのみが有する権利や性質において、アッラー以外の何かを共有させる信仰や行為のことを指します。

  • 虚栄心という穢れからの清浄さ:至高のアッラーはこう仰いました:

    サラー(礼拝)をおろそかに行う者たちに災いあれ。そして他人の目を気にして行う者と、小さな親切すらも拒む者たちにも。(クルアーン 107:4-7)

  • 自惚れという穢れからの浄化:アッラーは賢者ルクマーンがその息子にこう諭したと仰っています:

    そして奢り高ぶって人々から頬を背けてはならず、地を高慢に歩いてはならない。アッラーはいかなる驕慢な自惚れ屋も愛でられないのだ。そして節度をもって歩み、声を低めよ。最も醜悪な声とは、ロバの鳴き声であるのだから。(クルアーン 31:18-19)

  • 虚栄心という穢れからの浄化:アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

    「衣服を奢り高ぶって長くたらしている者は、審判の日にアッラーが見守って下さることはないであろう。」(アル=ブハーリーの伝承)

  • 高慢さという穢れからの浄化:アッラーの使徒(彼にアッラからの平安と祝福あれ)は言いました:

    「心に種粒一つほどでも高慢さを持っている者は、天国には入らない。」ある者が言いました:「アッラーの使徒よ、よい衣服や靴を身につけることはどうなるのでしょうか?」彼は答えました:「アッラーは美しいお方であり、ゆえに美しさを愛で給われる。高慢さとは真実を拒み、他人を見下すことのことを言うのだ。」(ムスリムの伝承)

  • 妬みという穢れからの浄化:アッラーの使徒(アッラーからの祝福と平安あれ)はこう言ったものでした:

    「互いに憎しみ合い、妬み合い、背き合うのではない。アッラーのしもべである同胞となるのだ。そしてムスリムがその同胞を三日以上遠ざけることは、許されない。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)

また身体面における清浄さに関して、至高のアッラーはこう仰いました:

信仰する者たちよ、あなた方がサラー(礼拝)をする時には、あなた方の顔と両腕を肘まで洗うのだ。そしてあなた方の頭を撫で、両足をくるぶしまで洗え。あなた方が不浄な状態にあるならば、(水で体を)洗い清めよ。そしてもしあなた方が病人や旅行者であったり、あるいは排泄したり、または女性と交わったりして水を見つけることが出来なかったら、清浄な土地の表面でタヤンムム25するのだ。そしてそれでもってあなた方の顔と両腕を撫でよ。アッラーはあなた方に困難を与えられたいのではなく、あなた方を清浄にし、そしてあなた方にその恩恵を全うされたいのである。おそらくあなた方は感謝することであろう。(クルアーン 5:6) 「タヤンムム」とは、水がない時に砂や埃などで代用して行う身体の清浄化のことです。

また教友アブー・フライラは、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)がこう言ったと伝えています:

「次のクルアーンの句は、クバー・モスク*の民の描写として下ったものである:*「クバー・モスク」とはマディーナ郊外にある、イスラーム史上初のモスクのことです。

そこには自らを清めることを愛する男たちがいる。そしてアッラーは、よく自らを清める者を愛で給われるのだ。(クルアーン 9:108)

彼らは用を足した後、水で体を清めていたものであった。ゆえにこの句は、彼らのことに関して啓示されたものである。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)

28

イスラームの教えは強力な内的力を秘めています。それは人の心の中に入り込み、それでもってその者を虜にするのです。この理由ゆえにある種の布教者の経済的脆弱さや人格的落ち度などにも関わらず、いまだ多くの人々がイスラームを受け入れ続けているのです。またイスラームの敵はそのイメージを歪曲したり破壊したりするために莫大な金銭を費やしていますが、人々はまだ次から次へとイスラームに入信し続けています。そしてイスラームに改宗した後に棄教する人はとても稀です。イスラームの中に疑念を発見しようと研究する一部のオリエンタリストすらも、このイスラームの内的力の影響から無縁ではありません。イスラームの美しさと、人間の自然な性質及び正常な理性に調和する真の理念が彼らの人生を変え、そしてイスラームへと導くことが往々にしてあり得るのです。以前はイスラームの敵だった者が、今やそれが真実の教えであると証言するのです。ギブはこう言っています:

「それではもしクルアーンがムハンマドの手によるものだとしたら、きっと彼以外の他の者も同様の物を作成出来たであろう。それと同様の物を、彼らに十句だけでもいいから作らせて見るがいい。そしてもしそれに失敗したら(絶対失敗することになるのだが)、彼らにクルアーンを明白な奇跡として受け入れさせるのだ。」

29

イスラームは社会扶助の教えです。ムスリムはどこにいようと、その同胞の用事に奉仕しなければなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「信仰者たちが互いに慈しみ合い、愛し合い、同情し合うのは、まるで一つの体のようである。体のある部分が痛みを訴えれば、他の部分が不眠と熱に冒されながら、彼の(看病の)ために寄り集まって来るのだ。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)

またイスラームは義務であろうと任意のそれであろうと、ムスリムが喜捨を通して自らの状況を改善しようと努力しなければならないとします。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「自らに欲することをその同胞にも欲するようにならなければ、本当に信仰したことにはならない。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)

ムスリムはその同胞が災難や苦悩の中にある時、その者を助けなくてはなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「信仰者同士は、一軒の堅固な建築物のようなものである。レンガの一つ一つが互いに強化し合っているのだ。」そう言って彼は両手の指を組み合わせました。(アル=ブハーリーの伝承)

またムスリムは戦争の折、その同胞を援助し支持しなければなりません。至高のアッラーはこう仰いました:

もし彼ら(マディーナに移住せずにマッカに残存したムスリムたち)が宗教においてあなた方に援助を求めて来たら、あなた方は彼らを援助しなければならない。(クルアーン 8:72)

また同胞が困窮している折に見捨てることは、禁じられています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:

「ムスリム同胞の名誉が侵害されているのに、彼を守らずに見捨てる者は、彼自身が最もそうされるのが必要な時にアッラーから見捨てられるであろう。そしてムスリム同胞の名誉が侵害されている時に、彼の援助へと駆け付ける者は、彼自身が最もそうされるのが必要な時にアッラーのご援助を得ることが出来るであろう。」(アフマドとアブー・ダーウードの伝承)

30

イスラームは公正で平等な相続システムをもたらしました。イスラームにおいて故人の財産は老若男女の別なく、その権利に応じて相続人の間に分配されます。そしてその分配法は、健常な理性にそぐう類いのものです。遺産の分配は故人からの親等的近縁性と、故人に対する役割に応じて行われます。いかなる者も好き勝手に遺産相続の割合を決定する権利はありません。イスラームの相続システムの長所の一つは、以下に莫大な遺産であったとしてもそれを小さく分割して分配し、その独占を不可能にさせていることです。聖クルアーンは「女人章」の中の三つの句(11,12,176)で、遺産が両親や子供、配偶者や親類にどのような割合で分割されなければならないかを明白にしています。またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「実にアッラーは各人に各々の権利を与えた。それゆえに遺産の相続分を既に定められた者に、それ以外のものを分配してはならない」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)

31

イスラームは、遺産の一部を遺言で遺譲することを認めています。全てのムスリムは、自分の死後もそれが彼にとっての継続的な慈善行為となるようなよい目的のために、財産の一部を遺譲する権利を有します。但し遺言による遺譲額は、全財産の三分の一を超えてはなりません。教友アーミル・ブン・サアドはこう言っています:

「アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は私が病でマッカにいる時、私をお見舞いに来てくれました。私は彼にこう言いました:“私には財産があります。それを全部施してしまってもよいですか?”彼は言いました:“いや。”私は言いました:“それではその半分は?”彼は言いました:“いや。”私は言いました:“それでは三分の一は?”すると彼は言いました:“三分の一、三分の一でも多いな。子孫を豊かにしておく方が、彼らに物乞いをさせるようにするよりも良いのだぞ。あなたが施す物は、例えあなたの妻への一口の食事であっても全て慈善行為となるのだ。アッラーは(その施しによって)あなたの位階を上げ、それによってある者たちにあなたから益を得させ、また別の者たちにはそれによって害を与えるであろう。”」(アル=ブハーリーの伝承)

イスラームは遺言による遺譲に関して、ある条件をつけています。それはその者がそれによって、他の相続人を害してしまわないようにするためのものです。至高のアッラーはこう仰いました:

(そしてこれらの分配は)その者が残した害悪のない遺言と(抱えていた)債務の清算後のことである。これこそアッラーのご命令。アッラーは全知かつ寛大なお方である。(クルアーン 4:12)

32

イスラームは社会を犯罪から守り、平和を保障するための刑罰体系を提供しています。その実施によって殺人は予防され、財産と名誉は守られ、犯罪は抑制され、人々の権利は侵害から守られます。また各々の犯罪にはそれに相応しい刑罰が用意されているので、犯罪は減少し、その衝撃も弱まります。例えば故意の殺人に対する刑罰は、死刑です。至高のアッラーはこう仰いました:

信仰する者たちよ、殺人に関してあなた方に報復刑が定められた。(クルアーン 2:178)

しかしもし被害者の後見人が赦免すれば、故意の殺人犯の死刑は中止されます。至高のアッラーはこう仰いました:

しかしその件(殺人の報復刑の行使のこと)が(被害者側である)その同胞によって赦免された場合、(被害者側はその代償を別の)よき形で請求し、また(加害者側は)彼に対して(その義務の遂行において)至善を尽くすのだ。(クルアーン 2:178)

また窃盗犯は、手首の切断刑に処されます。至高のアッラーはこう仰いました:

男女の窃盗犯は、彼らが成したことの報いゆえ、そしてアッラーの懲罰ゆえ、その手を切断するのだ。アッラーは威光高く、この上なく英知溢れるお方。(クルアーン 5:38)

もし自分の手が切られることを知っていたら、果たして物を盗んだりするでしょうか?きっと自分の手の方が大事に違いありません。こうして人の財産も悪から守られることになります。また未婚者の姦淫罪に対する刑罰は、鞭打ち刑です。至高のアッラーはこう仰いました:

男女の姦淫者は各々、百回の鞭打ちに処すのだ。(クルアーン 24:2)

一方で、他人のことを姦淫で訴えてもその証拠を提示出来なかった者もまた、鞭打ちの刑に処されます。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてムフサン*を姦淫で告発した後に四人の証人を呼んで来れない者は、八十回の鞭打ち刑にせよ。(クルアーン 24:4) *「ムフサン」とは男女の別なく、成人ムスリムで精神的に健常な自由民で、婚姻の経験(つまり合法的な性交渉の経験)があり、慎ましく放縦ではない者のことです。

尚イスラームにおける全ての刑罰と懲戒は、一つの原則にその因を発しています。至高のアッラーはこう仰いました:

そして一つの悪行に対する報いは、それと同じ一つの悪行なのである。(クルアーン 42:40)

また至高のアッラーはこうも仰っています:

そしてあなた方が懲らしめる際には、あなた方がされたのと同様の形において懲らしめるのだ。(クルアーン16:126)

しかしこれらの刑罰の実施にあたっては、ある特定の状態や条件が整っていなければなりません。またそれらの刑罰は必ずしも実行しなければならないというわけではなく、特に人間に属する権利に関する分野においては刑の実施を赦免してやることも出来ます。至高のアッラーはこう仰いました:

…だが許して和解する者には、アッラーが報奨を与えて下さるであろう。(クルアーン 42:40)

またこれらの刑罰の実行の背後に隠されているものは復讐や荒々しい懲戒などではなく、他人に害を与える恐れのある者の抑止策や、社会の安全と人権の保護なのです。他人を殺害すれば自分も殺されることを知り、窃盗すれば手を切られることを知り、また姦淫を行ったり無実の者を姦淫で訴えたりする者が鞭打たれることを知るならば、人は間違いなくそのような犯罪を思い止まることでしょう。至高のアッラーはこう仰いました:

報復刑(の定め)にこそ、あなた方の生命(の安全)があるのだ。理知を備える者たちよ、あなた方は(不当な殺害や傷害から)慎むことであろう。(クルアーン 2:179)

ある人々は、イスラームにおいてある種の罪に対して定められた刑罰が余りに過酷であると主張するかもしれません。しかしこれらの行為が社会に明白な危険を及ぼす犯罪であり、それらは根絶され、その行為者たちが罰されなければならないことに意義を唱える者はいないでしょう。ゆえにここでの相違点は、これらの犯罪に見合った刑罰の種類に関してのものであると言えます。犯罪の撲滅と減少効果においてより効果的であるのは、イスラーム法で定められた刑罰か、それとも人が作った法‐それは犯罪の増加に寄与しているだけですが‐かどうかを確認すべきです。体全体が存続するためには、病気に罹っている身体の一部を切り落とさなければならないということもあるのです。

33

イスラームは日常生活に付きものの諸事を簡易なものとするために、売買行為や会社の設立、貸与、諸々の取引や交換などのあらゆる形の経済活動を合法としました。但しそれもその取引によって誰かが被害を受けたり、または個人の権利が侵害されたりしないことなど、イスラーム法によって定められた特定の条件を満たしていることが条件となります。またその取引において両者はその合意に満足しているべきで、取引の対象はそれに付随する関連条件と共に明確にされていなければなりません。イスラームにおいては利子や賭け、対象やその条件が不明なまま行われる取引など、何らかの被害や危険を及ぼしたり、あるいは取引に参加する一方の者だけが被害を蒙る恐れがあるような場合を除いて、全ての経済的行為が合法であると見なされます。

また全ての人はイスラーム法に沿った形で自らの財産を自由に処分する権利を有しますが、その者の行為によって彼自身や他人が被害を蒙る恐れがある者に関しては、その権利を阻まれる場合があります。例えば年少者や知的発達障害者、禁治産者、あるいはまだ負債を返済していない者などがそうで、そのような者たちは財産の使用権を制限されます。このような所にも、健常な理性とは矛盾しない偉大なる英知と権利の保護が見受けられるでしょう。

34

イスラームは明確で、曖昧な部分のない宗教です。そこには混乱を招くような信仰はありません。人は疑問に感じたあらゆることに関して、質問することが出来るのです。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてもし知らないのなら、訓戒の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒、あるいは学者)に訊ねてみよ。(クルアーン 21:7)

またイスラームはアッラーが下した知識を隠蔽することに対して、非常に厳しい警告をしています。至高のアッラーはこう仰いました:

実にわれら(アッラーのこと)が下した明証と正しい導きを、啓典において人々に明らかにした後に隠蔽する者たちは、アッラーのご慈悲から遠ざけられ、(天使や人々、その他の生物など)全てのものから見放されるであろう。(クルアーン 2:159-160)

35

イスラームは、栄誉と精華を極めるためにムスリムが一致団結することを促す、団結と協力の教えです。これは以下のような物事によって達成されるでしょう:

  • 個人的欲望や、民族主義や部族意識などによって扇動された感情、そしてムスリム共同体の弱体化や崩壊につながる諸々の要素を放棄すること。
  • 信仰心や崇拝行為を、それらを損なうような物事‐例えばアッラーに何か他の者を併置することや、宗教上の変革など‐から浄化すること。
  • 政治、経済、社会などあらゆる分野においてムスリムが協力し合うこと。そうすれば平和と安全が到来するでしょう。至高のアッラーはこう仰いました:

    あなた方はアッラーの絆にしっかとしがみ付き、分裂するのではない。(クルアーン 3:103)

イスラームはムスリムが分裂したり、派閥を作ることを禁じています。至高のアッラーはこう仰いました:

そして明証が訪れた後に分裂し、互いに相違してしまった者たちのようにはなるのではない。彼らにこそは痛烈な懲罰があるのである。(クルアーン 3:105)

またアッラーの宗教における分裂などは言語道断です。至高のアッラーはこう仰いました:

彼らの宗教を分断し、分派を作った者たちは、あなたには無縁の輩である。彼らの裁決はアッラーにのみ帰されるのだ。(アッラーは)彼らが行っていたことについて、彼らに告げ知らされることであろう。(クルアーン 6:159)

イスラームは分裂と相違がもたらす損失的結果について、明確に説明しています。そのような状況になればイスラームの敵はもはやムスリムを恐れず、彼らを容易に下方へと蹴り落とすことが出来るでしょう。至高のアッラーはこう仰いました:

…そして互いに相違して士気を失い、勝利を逃してはならない。(クルアーン 8:46)

36

イスラームは不可知の世界におけるある種の出来事や、歴史上のある特定の社会について言及しています。クルアーンの章句の多くが、それらの社会とそこに遣わされた使徒や預言者の間に起こった出来事の詳細を伝えているのです。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてわれら(アッラーのこと)は、われらのみしるしと明白な力と共にムーサーを遣わした。ファラオとその族長たちに。しかし彼らはファラオの命に従った。ファラオの命など正しいものなどではないのにも関わらず。(クルアーン 11:96-97)

また至高のアッラーはこう仰いました:

そしてマリヤの子イエスがイスラエルの民にこう言った時のこと:「私は私以前のトーラーを確証し、そして私の後に到来する“アフマド”という名の使徒の福音を告げるべくあなた方に遣わされた、一人の使徒である。」しかしいざ彼(アフマド:つまり預言者ムハンマドのこと)が明証を携えて現れると、彼らは言った:「これは明らかな魔術だ。」(クルアーン 61:6)

また至高のアッラーはこう仰いました:

そしてアード(の民)にはその同胞であるフードを(遣わした)。彼は言った:「民よ、アッラーを崇拝するのだ。あなた方にはかれを差し置いて、崇拝すべきものはない。実にあなた方は捏造者である。」(クルアーン 11:50)

また至高のアッラーはこう仰っています:

そしてサムード(の民)にはその同胞であるサーリフを(遣わした)。彼は言った:「民よ、アッラーを崇拝するのだ。あなた方にはかれを差し置いて、崇拝すべきものはない。かれはあなた方を大地から創り、そしてあなた方をそこを開発する居住者とした。かれにお赦しを乞い、悔悟するのだ。実に私の主は(その知識をもって)近くにおられ、(祈りを)聞き届けられるお方である。」(クルアーン 11:61)

アッラーはこの他にも、使徒や預言者たちとその民との間に起こった話を語っています。

37

イスラームは最後の啓典であるクルアーンに関し、全人類に対してそれに匹敵するものを作成してみよ、と挑んでいます。そしてこの挑戦は、審判の日まで継続するのです。至高のアッラーはこう仰いました:

もし彼らが本当のことを言っているのなら、それ(クルアーン)と同様の言葉を捻出させてみるがよい。(クルアーン 52:34)

その後アッラーは全人類に対し、クルアーンのいくつかの章と似ている章を作れるものなら作ってみよ、とその挑戦を軽減しています。至高のアッラーはこう仰いました:

いや、彼らはこう言っている:「彼(ムハンマド)がそれ(クルアーン)を作ったのだ。」(ムハンマドよ、)言え、:「それと同様の十の章でもよいから、偽造して持って来てみよ。そしてあなた方が本当のことを言っているのなら、あなた方がそうすることの出来るアッラー以外の何かに(そこにおける援助を)祈願してみるがよい。」(クルアーン 11:13)

そして更に、アッラーはその挑戦をただの一章にまで軽減しました。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてもしあなた方が、われら(アッラーのこと)がわれらのしもべ(ムハンマド)に下したもの(クルアーン)に関して疑念を抱いているのなら、それと同様のものを一章でもよいから持って来てみよ。そしてもしあなた方が本当のことを言っているというのなら、アッラー以外のあなた方の証人(の援助)を祈願してみるがいい。(クルアーン 2:23)

そしてこの挑戦は人間とジン(精霊的存在)を含む、全ての被造物に向けられています。至高のアッラーはこう仰いました:

例え人間とジン(精霊)が団結してこれと同様のクルアーンを捏造しようとしても、同様のものは作ることが出来ない のだ。例え彼らが互いに力を合わせても、である。(クルアーン 17:88)

38

ジハード(聖戦)は宗教と個人、家族と国を守るために定められました。またイスラームは普遍的な教えであり特定の人種のためのものではないことから、イスラームの布教を妨害しようとする者たちに対しても宣告されます。イスラームは全人がその教えと美点と正義を知り、またそこに含まれるものを愛する機会が与えられるべきだとしています。またジハードは抑圧からの解放と、不正を蒙っている者を援助するためにも宣告されます。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてあなた方に戦いを仕掛ける者たちと、アッラーの道において戦え。しかし度を越してはならない。実にアッラーは度を越える者を愛で給わらない。(クルアーン 2:190)

イスラームにおけるジハードは、アッラーの御言葉が興隆し、かれの宗教が拡大することを意図して行われます。至高のアッラーはこう仰いました:

そして(不信仰による)苦難がなくなり、宗教が全てアッラーのものとなるまで、彼らと戦うのだ。そしてもし彼らがそれ(不信仰、あるいは戦争)を止めるのなら、実にアッラーは彼ら(の心の内)をよくご覧になられるお方である。(クルアーン 8:39)

ある男が、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)にこう言ったことがありました:

「ある者は戦利品のために、またある者は名声のために、そしてまたある者は見栄のために戦います。一体その内の誰がアッラーのために戦っているのですか?」彼は答えました:

「アッラーの御言葉が興隆し、かれの宗教が拡大することを望んで戦う者が、アッラーのために戦う者である。」(アル=ブハーリーの伝承)

ジハードの目的は現世や個人的利益、あるいは悪魔的利益なのではなく、またその領土を拡大したり、軍事力を誇示したり、あるいは敵への復讐なのでもありません。至高のアッラーはこう仰っています:

そして傲岸さと人々に対する虚栄心ゆえに家を後にし、アッラーの道を阻もうとする者のようになるのではない。(クルアーン 8:47)

イスラームは善を勧め、悪を禁じる宗教であり、これこそがムスリムの共同体を守るものです。その信徒がイスラームの命じることを遵守し、禁じることを回避している限り、イスラーム共同体が擁護され続けるというのはイスラームの教義の一つです。またイスラームは正しい道から反れた者を矯正し、そのような者たちが罪を犯すことを阻むことを模索します。こうして社会を悪と腐敗から守るのです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:

「アッラーの掟に従う者たちとそれを妨害する者たちとの関係は、ちょうど(出発する前の)船にその居場所を配置された人々の一団のようである。彼らの内のある者たちは甲板に、そしてある者たちは船室に配置されるが、船室に入れられた者たちは水が欲しくなったら(甲板にいる者たちの)上を跨いで行かなければならない。それで彼らはこう言う:“もし私たちが(水を得るために)船底に穴を開ければ、甲板にいる者たちを邪魔する必要はなくなる。”それゆえ甲板にいる者たちが彼らを好き放題にさせて置けば、彼ら全員が破滅するであろう。しかしもし彼らがそれを阻止すれば、彼らは全員助かるであろう。」(アル=ブハーリーの伝承)

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イスラームは普遍的な教えであり、取引事や戦争、婚姻や経済、政治や崇拝行為などに至るまで、全てのことに関する法や規則を制定しつつ人生の全側面を網羅しています。これは一つの完全な社会の建設へとつながりますが、きっと全人類が一丸となって努力したとしてもその作成が適わない類のものでしょう。これらの法や規則から遠のけば遠のくほど、社会はより腐敗に晒されるのです。至高のアッラーはこう仰いました:

そしてわれら(アッラーのこと)はあなたに、あらゆる物事への解明と正しい導き、そしてムスリムに対しての慈悲と福音ゆえに啓典を下した。(クルアーン 16:89)

イスラームは生活上の諸事かどうかに関わらず、ムスリムとその主、そしてその社会と環境の間の関係を定義づけています。イスラームにおいて健全な理性や自然な人間の本性に反したものは、存在しません。用便の際のムスリムの作法や、その前後に彼がすべきことなどといった日常的諸事や倫理などにも重要性が置かれているのを見れば、この事実が明らかになるでしょう。アブドゥッラフマーン・ブン・ザイドは、ある者が教友サルマーン・アル=ファールスィーにこう言ったと伝えています:

「あなた方の預言者はあなた方にあらゆることを、用便の仕方すらも教えたというのか?」サルマーンは答えました:「ええ。彼は私たちが用を足している時にマッカの方向を向くこと、そして洗浄の際に右手を用いることを禁じました。またその際には最低三つの小石を用いるよう命じ、糞や骨を用いることは禁じました。」(ムスリムの伝承)

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イスラームという宗教はそれ自体、復活の日とこの世の終わりの到来を示す一つの兆候です。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は彼が最後の使徒であり、彼が遣わされたことが最後の時の接近を示す一つの印である、と述べています。教友アナスは、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)がこう言ったと伝えています:

「最後の時と私は、このような間隔において呼び出されるのだ。」そう言って彼は人差し指と中指をくっつけました。(ムスリムの伝承)

そしてこれは彼が最後の使徒であるという事実によっているのです。

  

『イスラームのメッセージ』アブドゥッラフマーン・アッ=シーハ著より

 

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