大橋あみなのアクセス・コンシャスネスな日々です


バディズ、誰が持ちたい? by シャノン・オハラ


少なくとも、わたしが考えていたことです。

身体というものはとても興味深いトピックであり、さらに非常に多くの問題と関ってくるものだということ。
アクセスをはじめて10年たってもまだ、身体が本当は何のためのものなのか気づいていませんでした。
身体とは地球での人生を 楽しむ ためのものなのです。

でもいったいみんな実際は身体とどんなことをしてどんなことを選んでいるの?

父であるアクセス・コンシャスネスの創始者ギャリー・ダグラスが
「エンバディメントの本当の素晴しさというものを知るまでは、転生を選ぶことはできない」
と繰り返し言っているのを聞いてきました。

エンバディメントの本当の素晴しさって?いったいどんなもの?

そのころまで、わたしは自分の身体と一緒に楽しんでいたとは言えません。
あまりありがたいとも思っていませんでした。
昔の自分の写真をみて、思っていたより悪くないなあと感じることがあったりすると、身体をありがたいと思うことができて、普段はそんな気持ちを全く持ち合わせていないことに気づいたりしませんか?

それから痛みというものがありました。
これはわたしがアクセス3デイバディクラスに参加して自分でもそのクラスをファシリテートする前にはないことでした。
ようやく身体を持っていることが楽しいことだと思えてきた頃です。
アクセスのハンズオン・バディプロセスが身体とのつながりと喜びを与えてくれたのです。
そんなことが可能だとは思ってもいませんでした。

身体がどんなものか、どんなものだったかが、そして身体に感じていた痛みというものが、実は自分のものでないということもよくわかるようになってきました。
わたしの身体が他人のもの、地球のものまで受け取っていたアウェアネスだったのです。
「自分は身体がどれだけアウェアネスを得ているかというアウェアネスが欲しいの?」と自分に問いかけていました。

街を歩くだびに身体が感じるアウェアネスは耐えられないものになっていました。
それから人がまわりにいる時にはアウェアネスを避けようとしていました。
感じるすぎるため、自分と身体のアウェアネスにバリアーをはろうとしていました。
もちろんこれはもっともっと痛みを招いていたのですが。

ある日「もう嫌!他の可能性が現れてくるアウェアネスを得るわよ、他に何かあるはず、何かが」そう叫んでいました。
そうしたら、少しずつですが身体がハッピーになり始めました。
周りに他の身体があるとまだ痛みは感じるものの、それが以前ほどのインパクトを持ってはいません。
それまでは塊が詰まっているだけのようなお腹のあたりから、激しい喜びが沸き起こってくる感じがしはじめたのです。

それからもアクセス・バディ・プロセスを続け、身体を持つことを選んできて(身体を持つことを選ぶと身体が喜ぶっていいましたっけ?)この身体の喜びに逆らうことにどれだけエナジーを費やしてきたことか気づくことができました。
そして、これはほとんどの人も同じようにしていることだいうこともわかってきました。
この地球の12歳以上のほとんどの人が、自分の身体との楽しみと喜びをわざわざ制限しているのです。
クレイジーですよね!

もし、誰もが身体と一緒に楽しんで歩くことができて、自分の身体をジャッジしたり痛めつけたりせず優しくいたわることができる世界だったら?
どんなに違う世界になるでしょう!

あなたが自分の素晴しい身体と生きていたい世界はどんなもの?
わたしたちが身体のアウェアネスや賢さに尊重とありがたさを抱けるような世界だったら?
身体が尊重されている世界ってどんなところ?

あなたが見つけてください…

シャノン・オハラ



日出ずる国






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