アキーダとイバーダ【第2部 アキーダ (信仰行為)】3 ザカート 4 サウム 5 ハッジ

アキーダとイバーダ【第2部 アキーダ (信仰行為)】3  ザカート 4 サウム 5 ハッジ
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3 ザカート

ザカート

A ザカートの意味と重要性

ザカートは、イスラームの基礎となる第二の柱です。これは財産に余裕のあるムスリム (イスラニム信者) に対し、至高なるアッラーが命じられた義務の一つであり、その人の財産から一定比率の金銭や現物を支払うことを意味するものです。ザカートは毎年の終わりに、それぞれの人の収入資源と貯蓄の双方に課せられます。クルアーンにも、ザカートについてサラートの務めと同じ章や節にしばしば述べられています。

本当に信仰して善行に励み、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなす者は、主の報奨を与えられ、恐れもなく憂いもない。』雌牛章 (第2章)277節

これは英知の啓典の微節 (印) で あり、善行に勤じむ者への導きであり、また慈悲である。礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、また、来世を堅く信じる者たちへの (導きであり慈悲)で ある。これらの者は主の御導きの許にあり、かれらこそは成功する者である。』ルクアーン章 (第31章)2~5節

このように、サラート(礼拝)は言葉と動作による至高なるアッラーに対する崇拝の行為であり、ザカートは財産による崇拝の行為なのです。アッラーヘの崇拝の気持ちがなくては、この二つの行為は精神的な意味を持ちません。

あるとき預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)のところに、一人の男がやって来て尋ねました。「私を天国に入れる行ないを教えてください。」預言者 (彼の上に祝福と平安あれ)はこうお答えになりました。「あなたは至高なるアッラーを崇拝し、かれにどのような同位者も立ててはいけない。サラートをきちんと行ない、ザカートを支払い、親戚と良い関係を保ちなさい。」

イスラームは信仰とそれに密接に結びついた行ないからなります。クルアーンの中には「サラートを確立し、ザカートを支払え」というくだりが数多く出てきますが、このように精神的行為であるサラートと実際の行動 (この場合は福祉)とが密接に結びついているのがイスラームの特徴です。信仰が単なる個人の精神的満足のための信心で終わらず、社会に向かって行動する方に向いているのです。博愛や慈悲の精神による福祉は様々な所にありますが、イスラームにおけるザカートは崇拝行為の一種です。サラートやサウムが体を使って行なう崇拝行為であるように、ザカートは金銭を使って行なう崇拝行為なのです。ムスリムはザカートによって自分の財産を清め、至高なるアッラーの恵みに感謝し、来世への投資とするために施すのです。

実際には、イスラーム国家がある場合、ザカートの支払能力のある人々からザカートを徴収するのは国家の義務です。しかし、非イスラーム国家では、至高なるアッラーと社会に対するこのザカートの務めは、ムスリム各人の自発性に任されています。 したがってムスリム兄弟たちが互いにその務めに注意を促し合っています。

B ザカートの精神

富は至高なるアッラーの恵みです。至高なるアッラーは宇宙の創造主であり、保持者であり、人間が持っているあらゆるものの本当の所有者です。 クルアーンでこう語っています。

『誰が天と地を創造したのか。また誰があなたがたのために、天から雨を降らせるのか。それでわれは、美しい果樹園をおい茂らせる。そこの樹木を成長させることは、あなたがたには出来ない。…』蟻章 (第27章)60節

至高なるアッラーこそあらゆるものの本当の所有者であり、私たち人間は富を託されたにすぎないのですから、財産はアッラーの御意志に沿った方法で使うべきです。財産を築くことは、それ自体が目的ではなく手段ですから、正しく使うことを考えなければなりません。また至高なるアッラーヘの純粋な信仰のほかに、アッラーから見て最も大切なことは、親切と慈善、忍耐と他人への思いやりであると述べられています。

順境においてもまた逆境にあっても、(主の贈物を施しに)使う者、怒りを押えて人びとを寛容する者、本当にアッラーは、善い行ないをなす者を愛でられる。』イムラーン家章 (第3章)134節

このように至高なるアッラーは、創造物に対する謙譲の心、正しい欲求を充たすための中庸の道、煩悩の制御および寛容と博愛の精神を私たち人間に命じておられ、同時に、傲慢、享楽の追求、物質への欲望の追及を控えるように求めておられます。ですから、サラート(礼拝)は 心のおごりを清め、サウム (斎戒)は肉体的欲望を制御し、ザカートは財産へのどん欲を克服するためでもあるのです。

これらの行ないすべての背後にある本質は、至高なるアッラーヘの帰依、至高なるアッラーのすべての恵みに対する感謝、至高なるアッラーの寛容と慈愛への希望です。

特に、財産に余裕のあるムスリムがこのザカートの務めを果たすことは素晴らしいことです。それは、至高なるアッラーからの恵みに対する感謝の気持ちと、他人を助けることのできる喜びです。ザカートを払うことは至高なるアッラーヘの務めですから、人はザカートを与えた相手に何かしてやったように考えてはなりません。むしろ自分のザカートを受け取る相手がいることに感謝しなくてはなりません。貧しい者がザカートを受け取るのは正当な権利であり、それを与えることは裕福な者の義務だからです。イスラームの他の信仰行為と同様に、ザカートを与えたり受け取ったりすることは、双方の意図が純粋で誠実でなくてはならないのです。

C ザカートの効果

ザカートの道徳的・物質的な効果は明らかです。ザカートを施すことは、その人の財産に対するどん欲な気持ちを洗い清め、貧しい人に対する慈悲の心を育てます。そしてザカートを受けることは、その人の心から金持ちに対する羨望と反感の情を和らげ、彼の心の中に親愛の情を生みます。至高なるアッラーはクルアーンの中でこう言われています。

天と地の凡ての鍵は、かれに属する。かれは、御心に適う者に恵みを広げ、またひき締められる。本当にかれは凡てのことを知り尽される。』相談章 (第42章)12節

かれこそはあなたがたを地上の (かれの)代 理者となされ、またある者を外よりも位階を高められる御方である。それは与えたものによって、あなたがたを試みられるためである。…』家畜章 (第6章)165節

このようにムスリムは、金持ちであれ、貧しい者であれ、みな現世でどう生きるかを至高なるアッラーに試されています。財力のある者は寛大で慈善の気持ちを持ち、至高なるアッラーから授けられたものをムスリム兄弟に分け与える義務があり、貧しい者は忍耐し、他人を羨んだり嫉妬したりする心を抑えるよう努力する義務があります。来世での人の運命を決定するものは現世での富や地位ではなく、その人の至高なるアッラーヘの帰依の心、美しい品性および至高なるアッラーから授けられたものをいかに使うかにかかっています。

イスラームの経済原則は、クルアーンに記されているとおり、富を正しく、そしてバランスよく分配することにあります。

『…それはあなたがたの中の、ただ富裕な者の間にもっばらわたらせないためである。…』集合章 (第59章)7節

このようにイスラームでは、富の死蔵と無制限な蓄積を禁じていますが、富の強制的な平等分配も認めてはいません。むしろイスラームは中庸を勧めています。イスラームの教えに従えば、生活の手段や収入は合法的で正しいやり方で行われ、それによって得た利益は社会に正しく分配するようになるのです。

イスラームにおける富の社会への還元と分配は、ザカートとサダカです。ザカートは義務であり、サダカは自発的なものです。ザカートが正しく行われるならば、社会の差別と貧困を抑制する大いなる力となり、他人に対して互いに愛と尊敬の心を持ち、他人の幸福に関心をもつ人びとの社会を作り上げてゆくでしょう。

ザカートを人に与えることは、優越感とは全く関係がありません。それはサラート (礼拝)と同じく信仰に基づいた義務であり、ザカートを支払うことによって、その人はムスリムとしての行ないを果たしたことについて至高なるアッラーに感謝し、自分の罪の赦しを願って至高なるアッラーに祈らなければならないのです。

D ザカートの支払いが義務となる人

ザカートの支払いが義務なのは、成人の男女ムスリムで、ニサープに相当する金額の財産をイスラーム暦で一年間所有していた人です。

ニサープ

ニサープというのは、ザカートが義務になる最低余剰財産のラインのことで、これ未満の財産しか持っていない人にはザカートは義務ではありません。つまり収入がいくら多くても、必要経費や生活費が高くてお金が残らない場合、ザカートは義務にはならないのです。

ニサープの計算方法

ニサープの計算方法は、金87.48グラムの時価か、銀 612.36グラムの時価どちらか低い方をとります。イスラーム暦は太陰暦なので、一年は通常私たちが用いる西暦より短いので注意が必要です。ザカートを払う人は自分で任意に決算日を決め、そこから一年さかのぼって計算しますが、多くの人はラマダーン月を決算日にしています。

E ザカートの支払いが義務でない人

ザカートはイスラームの多くの決まりと同様、能力のない人には義務ではありません。そこで次の人はザカートを支払う必要はありません。

  • 財産がニサープに満たない人
  • 正気を失っている人
  • 未成年

F ザカートの計算

何にザカートがかかるか

ムスリムの財産のうち、ザカートの義務が発生するのは以下のような財産です。以下の財産をニサープ以上1年間所有していた人は、その財産に対しザカートを支払わなければなりません。

  • 現金
  • 金および金製品
  • 銀および銀製品
  • 在庫商品
  • 家畜
  • 農作物 (収穫毎)

ザカートの義務がないもの

  • 家庭用品あるいは個人の物品 (例えば家、衣服、食器、家具、自動車、パソコン、電話機、本など)
  • 商売目的以外の物品 (例えば商用車、事務機器、借りている事務所)

ザカートの計算は別表のようにされていますが、それぞれの計算についてはムスリムの学者、あるいはセンターヘご相談ください。

財産 最低限
農産物 収穫毎1568g以上 人為的水利の場合:5%
雨水利用の場合:10%
金銀および金銀装飾品 金88gまたは銀617g 価格の2.5%
現金 銀617g相当 2.5%
商品 銀617g相当 2.5%
鉱業 最低限なし 価格の20%
牛、水牛 30頭 30頭につき1才のもの1頭
40頭につき2才のもの1頭
羊、山羊 40頭 初めの 40頭に対して1頭
120頭に対して2頭
300頭に対して3頭
後100頭毎に1頭
ラクダ 5頭 4頭まで、羊か山羊1頭
25~35、1才もの雌ラクダ1頭
36~45、2才もの雌ラクダ1頭
46~60、3才もの雌ラクダ1頭
61~75、4才もの雌ラクダ1頭
76~90、2才もの雌ラクダ1頭
91~120、3才もの雌ラクダ1頭
121頭以上、40頭毎に2才もの雌ラクダ1頭または50頭毎に3才もの雌ラクダ1頭

G ザカートを受ける資格のある人

ザカートを受ける資格のある人について、クルアーンでは次のように述べられています。

施し〔サダカ〕は、貧者、日窮者、これ (施しの事務)を管理する者、および心が (真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため (に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。』悔悟章(第9章 )60節

ですから、ザカートを受ける資格があるのは次のような人々です。

  • 貧困者:自分と家族を支えるだけの充分な財産を持たない者
  • 羅災者:災害のために財産を失ってしまった者
  • ザカートを集めて管理する者:この仕事にたずさわる人の賃金はザカート基金から支払われます。ある学者の見解では、イスラーム国家の国税庁や公共団体の職員は、これに含まれます。
  • イスラームヘの改宗者:イスラームに改宗したために財産を失った者は、当然救済され、きちんとした生活に立ち直るように助けられるべきです。
  • 自由を東縛されている者:ムスリムの人質や戦争捕虜を釈放する身代金の支払いが含まれます。
  • 債務者:合法的な必要経費がかさんでできた債務の返済が出来ずに困っている者。 しかし、大げさな結婚式や、その他 自分の見栄や浪費によってできた債務の返済には当てはまりません。
  • 旅行者:イスラームの布教、学問の修得、商売などの正当な理由で自分の住まいを離れた地で困っている者は、この部類に入ります。ザカートは、この種の救済活動を行っている福祉団体に対しても支払われます。
  • 至高なるアッラーの道に奉仕する者:これはもっばらイスラームの布教活動を行なう人や、イスラームの知識を探求する学者や学生、それから社会のために有益な組織を作り改善する人、例えば病院、孤児院、教育研究所、図書館、モスク、イスラームの奉仕団体、あるいは知識の普及団体などの団体や職員を指します。

H ザカートを受ける資格のない人

次の人々あるいは用途にはザカートを支払うことはできません。

  • 非ムスリム
  • 預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)の直系の子孫
  • ザカート支払い者の祖父母、両親、配偶者、子供、孫
  • ザカート徴収人以外の給料としての支払い
  • 裕福な親のいる子供
  • 故人の借金の返済のため
  • 葬儀費用のため
  • モスクの購入や建築のため

I ザカートに関する各種の規定

ザカート提供者の扶養家族はザカートを受けることができません。ザカート受給者に必要以上を与えてはならないし、ザカートを受ける権利のある者も必要以上を受け取ってはなりません。政府へ支払った税金はザカートには含まれませんが、政府がザカートとして徴収している場合はかまいません。

ザカートの提供者はこの務めを実行することによって、おごり高ぶったり売名したりしてはいけませんが、もし自分がザカートを支払ったことが他人を励まし、善行への競争心をあおるような健康的なものであれば、名前を公表することも許されます。

受給者に自分のもらったものがザカートであることを告げる必要はありません。ザカートを受ける資格のある人が遠慮してザカートは受けたくないと言う場合には、その出所を特に言わないで与えてもかまいません。 しかし提供者はそれをザカートと意識して支払います。

ザカートは前に述べたような個人や団体に直接に渡されます。提供者は、その相手が本当にザカートを受け取る資格があるかどうかを、出来るだけ明確に判断しなくてはなりません。イスラーム政府がある場合には、ザカートは公的機関を通して税金と同じように集められ、その分配は政府の特別部門の仕事です。しかし非イスラーム国でのザカートの支払いは、それぞれのムスリムが自分の責任で支払う義務があります。

日本でザカートを支払う場合、個人が自分で貧しい人などを探したり、他のムスリムから紹介してもらったり、あるいは自分の信頼するイスラーム団体がザカートの分配を行っている場合、その団体に任せるという方法があります。

J どのようにザカートを支払うか

ザカートを支払うときには、ニーヤ (意志)が必要です。もしニーヤなしにザカートに相当するお金を払ったり施した後で、あれはザカートだったことにしようと考えた場合、そのザカートは無効です。もしザカートを支払った後でザカートを払うべきではない相手に施してしまったと気がついた場合、そのザカートは有効です。ザカートを支払うときは施された相手にそれがザカートであることを告げる必要はありません。

K サダカ

ザカートは経済的に余裕のあるムスリム男女に課せられた一つの義務ですが、サダカはその他のあらゆる慈善行為をさします。私たち人間が持っているものは全て至高なるアッラーの恵みであり、その中から金銭や自分の能力を提供して他人を助けることは人間の務めです。至高なるアッラーはクルアーンでこう述べています。

あなたがたは愛するものを (施しに) 使わない限り、信仰を全うし得ないであろう。あなたがたが (施しに) 使うどんなものでも、アッラーは必ず御存知である。』イムラーン家章 (第3章)92節

さらに何を慈善の為に使うかについて、至高なるアッラーは次のように語っています。

『…またかれらは何を施すべきかをあなたに問うであろう。その時は「何でも余分のもの」と言ってやるがいい.… 』雌牛章 (第2章)219節

そして施し方については、それを受け取る人の人格が傷つかないように気を配り、匿名で施したり、自分の行為を見せびらかしたり高慢になったりしないように注意するべきです。至高なるアッラーはこう語っています。

信仰する者よ、あなた方は人々に見せびらかすため、持物を施すように、負担侮辱を感じさせて、自分の施しを無益にしてはならない。…』雌牛章 (第2章)264節

親切な言葉と寛容とは、侮辱を伴う施しものに優る。アッラーは富有にして慈悲深くあられる。』雌牛章 (第2章)263節

施しをする相手は、まず自分の家族、扶養者からはじめて、親族、孤児、貧しい人、困っている人、未亡人、債務者、旅行者、至高なるアッラーの道の布教者、そして最後に、救助を必要とする一般人に対するように拡大してゆくものです。至高なるアッラーはこう語っています。

かれらは、如何に施すべきか、あなたに問うであろう言ってやるがいい。「あなたがたが施してよいのは両親のため、近親、孤児、貧者と旅路にある者のためである。本当にアッラーはあなたがたの善行を、何でも深く知っておられる。』雌牛章 (第2章 )215節

『(あなたがたの良い施しは)アッラーの道のために、心をいためながらも、大地を開歩出来ない困窮者のため (のものである)。かれらは控え目であるから、知らない者は金持であると考える。あなたがたはその様子から察しなければならない。かれらはしつこく人びとに請わないのである。あなたがたがよいものを施せば、アッラーは必ずそれを熱知されておられる。』雌牛章 (第2章 )273節

最後に、より広い見地からして、慈善の意義は援助を必要としている者に対して与える金や物だけに限らないことが強調されています。それは他人を助けるためにする行為や言葉のすべてを含んでいます。例えば時間、労力、利害関係、同情心、援助の気持ち、親切な言葉なども含まれます。他人が必要としていることに良く気を配り、病人を見舞い、葬儀に参列し、近親者に死なれた者を慰めること、また、笑顔で人に接すること、これらすべてが慈善の行為なのです。

この慈善行為を通して、私たちが真のイスラーム友愛精神を成し遂げることができるよう、至高なるアッラーのお導きがありますように。

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4 サウム

サウム

A ラマダーン月とクルアーン

ラマダーン月はイスラームにおいて非常に重要な月です。ラマダーン月にムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)が マッカ近くのヒラーの洞窟にこもっていた時、クルアーンの最初の啓示が下されました。

読め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。―凝血から、人間を創られた。」読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって (書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」』凝血章 (第96章)1-5節

アッラーはクルアーンの中でこう言われています。

ラマダーンの月こそは人類の導きとして、また導きと(正邪の)識別の明証としてクルアーンが下された月である。それてお前たちのうちこの月家にいる者は、この月中サウムしなければならない。』雌牛章 (第2章 )185節

アッラーの御言葉であり、イスラームの最も重要な啓典であるクルアーンは、ラマダーン月に下されました。この月はイスラームの聖月にあたります。ラマダーン月にはクルアーンをいつもよりもよく読み、現世の仕事や遊びより祈りや精神的な修養により時間を費やすことが求められます。

ラマダーン月は、イスラーム暦の第9番目の月にあたります。イスラーム暦は月の運行にもとづく暦ですので、私たちが通常使っている太陽の運行をもとにした暦とは違います。一年でおよそ11日短く、したがってラマダーン月も毎年約11日間早く繰り上がっていきます。年を重ねるとラマダーン月も冬、秋、夏、春と全ての季節に順番にめぐってきます。これはどういうことかと言えば、世界中のどんな地域に住んでいるムスリムも、公平に全ての季節でサウムをしなくてはならないということです。実際サウムは冬には気候も寒く、日も短いのでやりやすいのですが夏は暑く日も長いので他の季節よりも大変です。もしサウムがある特定の季節に限られていれば、ある国のムスリムはいつも楽なサウムを行ない、他の地域のムスリムは、ずっと苦しいサウムを行なうことになります。ラマダーン月が毎年ずれてゆくことで、世界中のムスリムは全ての季節のサウムを体験することになります。

B ラマダーン月とサウム

ラマダーン月のサウムはイスラームの五柱、つまりイスラームで最も重要な5つの義務の一つです。あらゆる成年のムスリムは、男性も女性も、ラマダーン月の1ヶ月間には毎日暁から日没までの間サウムをしなければなりません。

これは単なるダイエットや肉体的な苦痛のためではなく、精神的な行であり、アッラーに対する崇拝と服従を表す祈りの一つの形なのです。

アッラーは私たち人間を創造され、私たちに生命や身体をはじめ毎日の生活に必要なさまざまなものを与えて下さいました。私たちが健康で生活できるのも、毎日の食事が食べられるのも、アッラーがそれを与えてくれているからです。例えば人間は努力しますが、ほんの少し雨が降らなかったり、冷夏だったりするだけで、飢饉になります。いくら科学技術が進歩しても、アッラーがほどよい天気にしてくれなければ人間にはどうにもできません。アッラーは私たちの創造主であり、人間を養っている偉大な存在です。しかし人間は日常に慣れ、その恵みをあたりまえのことと思いがちです。サウムを行なうことによって、私たちは普段忘れているアッラーの恵みを改めて認識し、よリー層、感謝と服従の気持ちを新たにすることができるのです。

また、私たちはアッラーのしもべであり、アッラーは私たちの主です。ですから、アッラーが私たちに一定の期間、食欲や他の欲望を控えるように命じられたなら、私たちは従わなければなりません。アッラーはクルアーンでこう語っておられます。

信仰する者よ。お前たち以前の者に定められたように、お前たちにサウムが定められた。おそらく、お前たちは主を畏れるだろう。』雌牛章 (第2章 )183節

サウムには多くの利益があります。預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ) は次のようにおっしゃっています。
「誰でもラマダーン月に誠実な信仰とアッラーからの報奨を期待してサウムする者は、以前の罪を全て許される」

またサウムの効用の一つとして、自分の自制心・克己心を強くする作用があります。私たちは毎日の生活の中でたくさんの欲望を満たし、自分の健康に害があることを習慣にしていることもあります。私たちが欲望に常に忠実であり続けると、私たちは自分の欲望の奴隷になってしまいます。サウムを行なうことによって、私たちは欲望に支配されるのではなく私たちが欲望を支配し、自分の生活を抑制する精神的な強さを得ることができるのです。

またサウムをすることによって、私たちは食べ物のない貧しい人々の不幸をわずかでも体験することができ、それによって貧しい人々に対する同情心や親近感がわきます。またサウムという行事を通じて、私たちは自分が世界中のムスリムと一体になったと感じ、同胞意識を確認するのです。医学的にも、サウムは血液中の脂肪分をとり、腸内の細菌や乳酸の有害な働きをおさえるなど、健康にもよいことが解り始めています。

しかし、これらはどれも二次的なことです。私たちはアッラーからサウムを命じられました。そこでアッラーの忠実なしもべとしてアッラーのお喜びを求め、精神的にアッラーヘ近づくためにサウムを行なうのです。

C ルーヤ・アルヒラール (新月の観測)

ラマダーン月の始まりと終わりは新月の観測によって決まります。これをルーヤ・アルヒラールと言います。現代は計算によっておおよそのラマダーン月の始まりは分かりますが、実際の始まりは肉眼で観測して決定します。

イスラームの暦は月をもとにしているので、一日は日没から始まります。ムスリムの多い地域では、シャアバーン月 (イスラーム暦 8月) 29日の日没後に子供も老人も建物の屋上や山の上に登って一心に目をこらして新月を見つけようとします。もしそれでシャアバーン月の29日に新月を見つければ、ラマダーンが始まり、その夜からタラウィーフのサラートが行われ、翌朝からサウムが行われます。新月はとても細く、また地平線の上に登っている時間は日没直後の短い時間なので、天気が悪くかったり空気が澄んでいなければ月を見つけるのは難しいです。 もし誰も月を見つけることができなかった場合、シャアバーンの30日を終えてからラマダーン月が始まります。ですから、隣り合う別の国で、ラマダーン月の始まりと終わりがずれることもあり、それはそれで全くかまわないのです。 日本のようにイスラームの国でもなく、天候のために新月を見つけるのが難しい国では、新月が確認できなかった場合、一番近いイスラームの国であるマレーシアの日程に合わせることになっています。

D サウムのやり方

ニーヤ (意志)

サウムを始めるにあたっては、まずサウムをするニーヤ (意志)が必要です。口で言う必要はなく、本人がサウムすることを分かっていれば十分です

サフール

サウムの時間はファジュル (日の出より前の地平線に曙光がさしたとき)からマグリプ (日没)までです。このファジュルとはファジュルのサラートが始まる時刻と同じです。空の白み始める前に起きて、サウムに備えて軽く食事をとります。この食事のことをサフールと言います。これは預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)のスンナ (実践)です。これによって一日の体力を損なわない程度にサウムをすることができます。 しかしこの時の食事でお腹をいっぱいにするのは好ましくありません。この時の食事には、あまり塩味のきいたものや、強い味付けのものを避け、タンパク質を多く含んだ食べ物が良いとされます。

サフールを食べる時刻は遅い方が良いのですが、ファジュルまでには飲食を終え、歯を磨くなどしてサウムに備えるべきです。

サフールを終えたら、この日一日のサウムを行なうというニーヤを持ちます。たとえば、「アッラーよ。あなたの命令に従い、今日一日のサウムを行ないます」と意図します。食事をしてからファジュルのサラートが始まるまでのしばらくの間は、クルアーンの読誦や祈りに費やします。そしてファジュルのサラートの時刻に入ったら、日の昇る前までにサラートをささげます。

E サウム中やってはいけないこと・望ましくないこと

サウムを始めたら、昼の間は一切の飲食や喫煙、性行為をしてはいけません。一切のとは、例え一粒の米やウドゥーのときに口をすすいだ水の一滴ものどを通ってはいけないと言うことです。さらに口に入れたものを呑み込んだり、鼻や口から、あるいは注射器や座薬によって体内に薬や栄養剤を入れることもサウムを破ることになります。

しかしうっかりとサウム中であることを忘れていて、無意識に飲食したり、何かを口に入れたりした場合、気が付いた時点ですぐにやめ、そのままサウムを続ければ良いです。香水、こう薬、化粧クリーム、外用薬の使用、歯を磨いて口を軽くすすぐこと、無意識に唾を飲み込むこと、身体を洗うことなどは、サウムを破ることになりません。

また、サウムを直接破ることにはなりませんが、けんかや議論、他人の悪口や猥談などはサウムの精神的な効果を落とすので慎むようにします。イスラームのサウムは単に食べないと言うことではないのです。食事をしないことによる空いた時間を、こんな悪い方向に向けないように気を付けたいものです。

F サウム中するべきこと・許されること

ラマダーン月はサウムという行を通じて、自分を精神的に磨く月ですから、普段よりもよい生活習慣を心がけるべきです。預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ) は次のようにおっしゃっています。

「ラマダーン月、祝福の月が近づいてきた。その月の間には、アッラーはあなたたちの方を向かれ、かれの特別の慈悲を下される。またあなたたちの過ちを許され、祈りを受け入れられる。あなたちが良い行ないをお互いに競い合うのをご覧になり、天使たちの前であなたたちのことを自慢される。だからアッラーに対し、自分の良い所を見せなさい。真に最も哀れで不運な者は、この月にアッラーの慈悲にあずかれなかった者である」

そこでこの月には、普段よりずっと多くの時間を崇神行為に費やすべきです。まず、ラマダーン月とクルアーンには密接な関係があります。クルアーンの最初の啓示はこの月に下されました。そこでラマダーン月に一度、クルアーンの始めから終わりまで読破することが強く薦められています。

次に、義務のサラートは当然のこと、スンナのサラートやナフル (任意)のサラートもたくさん行なうべきです。ズィクル (アッラーの御名の唱念)やドゥアー (祈願)もいつもより多く行なうよう心がけます。

またサウムの目的の一つは、飢えや貧困とはどんなものかを体験して貧しい人に対する親近感を育てることにあります。ですから、施しをすることはサウムの目的に強くつながっていて、ムスリムは余裕のある範囲で、できるだけ多くの施しをすることが薦められます。たとえ金銭でなくても、サウムを解くときの食事に人を招いて一緒に食べることもその一環です。

また、多くの人がザカートの決算日をラマダーン月にしています。一年の貯蓄の2.5パーセントを貧しいムスリムに施します。

サウム中でも仕事をしたり買い物をしたり、禁じられていること以外は普通の生活をしてもかまいません。ただ、ラマダーンというこの聖なる月を良い機会に、仕事などの日常に全てをかけるのではなく、人間が生きている目的やアッラーの偉大さなどに思いを巡らせ、自分の人生をひとまず立ち止まってゆっくりと考えてみることが大切です。ラマダーン月というのは、まさにそういう精神的な意味のある月なのですから。

G イフタール

日が沈むと、その日のサウムは終了です。 日没後すぐになつめやしの実かミルクか水などを摂ってサウムを解きます。 この食事をイフタールと言います。イフタールを始めるまえに、次のように唱えるのが預言者 (彼の上に祝福と平安あれ)の実践です。

「アッラーフンマ ラカスムト ワビカ アーマント ワアライカ タワッカ ルト ワアラー リズキカ アフタルト ビスミッラー ヒラフマーニ ラヒーム」

(意味:アッラーよ。あなたのために私はサウムしました。あなたを私は信じ、あなたに私は頼ります。そして今私はこのサウムを、あなたから来る食ベ物によって破ります。慈悲あまねく慈悲深きアッラーのみ名において)

その後、マグリブ (日没後)のサラートを行ないます。マグリプのサラートを終えてから、各人の好きなように十分な食事をとります。夜の間は普通と同じ生活ができます。けれどもその時に、昼間食べなかった分を埋め合わせようとして一度に食べ過ぎないように注意したいものです。

H サウムを破ってもよい場合・免除される場合

次の人々はサウムをしなくてもよいことになっています。

  • サウムをすると病状が悪化する病人
  • イスラーム法で規定された「旅行者」:つまり80キロ以上の距離を移動して現地での滞在が15日未満の意志で自分の町を出た人。しかし旅行中でも特に苦痛なくサウムできるようであれば、サウムします。
  • 妊婦、および乳飲み子を育てている女性が、サウムによって胎児や母体に悪影響がある場合

以上の人々はサウムを遅らせることができますが、サウムのできない条件が終わり次第、後日できなかった分の日数、サウムをやらなくてはなりません。

  • 老人や虚弱なためにサウムにたえられない人:この人々はサウムの義務を免除されます。しかしもし金銭的に余裕があれば、自分がサウムできなかった日数一日につき、二食分の食事か、それに相当する金銭を貧しい人に施さなければなりません。
  • 思春期に達しない子供:しかし子供のうちからサウムに対する心構えを持たせるために、数日間、あるいは一日のうちの数時間だけでもサウムを体験させるといいです。

病気や旅行、月経などの正当な理由がないのに、勝手にサウムをやぶるのは、アッラーに対する違反です。

I サウムをしてはいけない場合

次の人はサウムをしてはいけません。

  • 月経期間中の女性:彼女はラマダーン月の後にやらなかった 日数分、遅れてサウムを行ないます。
  • 出産後の出血がある間:彼女は出血が止まってからやらなかった分のサウムを行ないます。

J カダーのサウム

正当な理由があろうとも、ラマダーン月の定められたサウムをしなかった場合やサウムを破ってしまった場合、後日同じ日数のサウムで埋め合わせをしなければなりません。 これをカダーのサウムといいます。カダーのサウムは、ラマダーン月の後、なるべく早く行ないます。

K カッファーラのサウム

食べたり飲んだり性交するなどしてわざとサウムを破った場合、その償いのため、後に自分で連続60日のサウムをしなくてはなりません。これをカッファーラのサウムといいます。 もし体力的にそれができなければ、破った1日につき60人の人に1日2食の食事をふるまうか、同等額のお金を施さなければなりません。

L フィドヤ

サウムが全くできない非常な高齢者や、死ぬまで治る見込みのない病人などはサウムの義務を免除されますが、その代わり補償金を払わなければなりません。これをフィドヤといいます。フィドャは逃したサゥム 1日につき、貧しい人に 1日2食分の食事をもてなすか、相当額のお金を施します。

M タラウィーフのサラート

ラマダーン月の間には、毎日5回の義務のサラートのほかに、預言者 (彼の上に祝福と平安あれ) の慣習であったタラウィーフと呼ばれるサラー卜があります。このサラートは各自または集団で8ラカー (礼拝の単位)、10ラカー、または70ラカー行ないます。

実際にマスジド(礼拝堂) で行なう場合は、イシャー (夜) のサラートの後、スンナのサラートを終えてから集団で行ないます。 2ラカーごとに終了し、4ラカーごとに少し休憩します。タラウィーフのサラートの後に続けて、普段は各個人で行なうウィトルのサラートも集団で行ないます。もしイマーム (サラートの先導者) がクルアーン暗記者であれば、毎晩クルアーンをこのサラート中に読み、ラマダーン月のタラウィーフで全クルアーンを読み切ります。

N ライラトゥ・ル・カドウル (力の夜)

ライラトゥ・ル・カドウルはイスラームで非常に重要な夜です。アッラーはクルアーンで次のように語っておられます。

真にわれはこの (啓示を) ライラトゥ・ル・カドウル (力の夜) に下した。力の夜が何であるかをお前に理解させるものはなにか。力の夜は千月に優る。(その夜) 天使たちと聖霊は主の許しのもとにあらゆる所に舞い降りる。暁までそれは平安である。』みいつ章 (第97章)1-5節

アッラーの啓示クルアーンは、ライラトゥ・ル・カドウルに天上から第一天に下されました。またこの夜には天使たちが群をなして地上に下り、祈っている人々の許しを求めます。この一夜は精神的価値において千月に優ると言われています。この夜が何日なのかははっきりと分かっていません。しかしラマダーン月の最後の10日に探さなければなりません。ラマダーン月21日 、23日、25日 、27日 、29日 (の前夜/ヒジュラ暦は日没から始まるため) は可能性が高く、特に27日 (の前夜) の可能性が最も高いと言われています。そこでムスリムはこの夜を求めて毎晩祈りに時を費やすのです。

ライラトゥ・ル・カドウルのドゥアー

イスラームにおける夜とは、マグリプ (日没) からファジュル (暁) までを意味します。その中でも最も祈りが聞き届けられ、精神的に重要な時間は夜の最後の三分の一です。この時間に起きてタハッジュド (深夜礼拝)をすることには大きな価値があります。ある時預言者の妻アーイシャが預言者 (彼の上に祝福と平安あれ)にたずねました。「もし私がライラトゥ・ル・カドウルを見つけたら、なんと言って祈れば良いでしょうか」預言者 (彼の上に祝福と平安あれ)はこうお答えになりました。

「アッラープンマ インナカ アフーウン トゥヒップル アフワ ファーア フアンニ (アッラーよ、あなたは最も許されるお方です。ですから私をお許し下さい)」

O イイティカーフ

イイティカーフとは、お籠もりの意志とともにマスジド (礼拝堂)vの中に籠もることです。預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)vはいつもラマダーン月の最後の10日間にはイイティカーフをされました。イイティカーフとは、現世の一切の雑事を置いてアッラーに対する祈りやクルアーンの朗唱などに費やすことで、それによって通常の祈り以上の精神的な恩恵を得ます。イイティカーフの状態にある人は、眠っていても祈っているのと同じ状態にあると見なされます。

イイティカーフのやり方

イイティカーフをするのに最良の場所は、マッカのカアバがあるマスジドゥ・ル・ハラームですが、どのマスジドで行なっても構いません。ラマダーン月20日の日没前、お籠もりの準備をしてマスジドに入り、イイティカーフをするニーヤ (意志表明) をします。ひとたびイイテイカーフが始まったら、正当な理由なしに中断した場合、その分を後でやり直ししなければなりません。イイティカーフはお籠もりですので、通常の生活をすることは許されません。基本的にマスジドの外に出ることができません。飲食や睡眠、更衣などすべてマスジドの中で行ないます。

イイティカーフ中に外出しても許される理由は、次のようなものです:

  • 便所に行くこと:マスジドに便所があれば、その便所を使用しなければいけません。
  • 風呂に入ること:マスジドにシャワー室が備えてあれば、それを使用しなければなりません。
  • 食事を用意してくれる人が誰もいない場合、家に食べ物をとりに行くこと:しかし食事はマスジドの中でしなければなりません。
  • 自分のいるマスジドで金曜礼拝がない場合、全曜礼拝に参加するために他のマスジドヘ行くこと

これら以外の理由、例えば家族に会いに家に帰るとか、葬式や見舞いに行くなどはイイテイカーフを破ることになってしまいます。イイテイカーフの最中は、1日5回のマスジドのサラートに参列し、サウムし、空いた時間はクルアーンを読んだり任意のサラートに費やします。特にラマダーン月の最後の10日間にはライラトゥ・ル・カドウルのチャンスがあるので、深夜礼拝は欠かさず行なうようにします。このようにして初心の通りお籠もりをするのです。シャウワール月の新月が確認されたならば、イイティカーフを終えることができます。

女性のイイティカーフ

女性の場合は自分の家の一角をイイテイカーフ専用の場所に定め、その中に籠もります。男性がマスジドに籠もる場合と同様、イイティカーフの最中は定められた理由なしにそこから出ることは許されません。ですから食事も家族の誰かに作ってもらうことになります。

P サダカトゥ・ル・フィトゥル (ザカートゥ・ル・フィトゥル)

誰が支払うか

サダカトゥ・ル・フィトゥルとは、ラマダーン月の間にする施しで、ザカートと同じくイスラームで定められた一定額の貯蓄 (これをニサープといいます) を所有している人全員の義務です。一般的に、家長である夫が妻や子供たち全員の分を払います。サダカトゥ・ル・フィトゥルによってアッラーはラマダーン中に犯した私たちの過ちをお許しになります。そしてそれは貧しいムスリム同胞がみなと一緒にイードを祝う助けになります。

いくらをどのように、誰に支払うか

サダカトゥ・ル・フィトゥルはラマダーン月の間、少なくともイードのサラートの前までに払います。額は1.633キログラムの小麦か米、あるいは相当額のお金です。現代の日本では、約1500円になります。自分で貧しいムスリムを捜して与えるか、信頼できるイスラーム団体に任せます。

Q ライラトゥ・ル・ジャーイザ

ラマダーン月は、その始まりと同じように新月を見つけることによって終わります。ラマダーン月29日に新月が見つかればその晩はタラウィーフもなく、翌日は祝日ですから、全てのムスリムはサウムの行が終わったことに対する達成感と満足感で休みます。もし新月が見つからなければタラウィーフのサラー卜を行ない、翌日のサウムに備えます。いずれにせよ、イスラーム暦の他の月と同様にラマダーン月は 29日か30日であり、それ以上にはなりません。 しかし祝日の前夜もライラトゥ・ル・ジャーイザと呼ばれ、価値ある夜ですから、意欲のあるムスリムは祈りに時を費やします。

R イードゥ・ル・フィトウル

ラマダーン月の明けた翌日はイスラームの祝日です。アッラーの教えのサウムを成し遂げたことに対してアッラーに感謝し祝う日です。この祝日のことをイードゥ・ル・フィトウルと言います。この日、午前中にムスリムは晴れ着を着て広場か大モスクに集まり、イードのサラートをささげます。その後自分の家族や友人たちを訪問したり、食事をしたりして幸せのひとときを過ごします。

イードのサラート

イードのサラートは朝早くに行なわれます。ムスリムは晴れ着を考て広場に集まり、集団でイードのサラートを行ないます。イードのサラー卜は2ラカーで、普通のサラートのやり方に加えて6回のタクビール (「アッラーフアクバル」と唱えること) を唱えます。イードのサラートが終わった後はイマームの説教があり、その後ムスリムたちは休日を過ごします。

S シャウワール月の任意のサウム

ラマダーン月の翌月をシャウワール月と言いますが、この月に6日間の任意のサウムをすることは、あたかも一年を通じてサウムするような報奨があると言われています。イードの日にサウムをすることは許されませんので、その翌日から、シャウワール月中であれば自由に6日間のサウムをすることができます。

5 ハッジ

ハッジ

A ハッジの意義

ハッジ (大巡礼)は イスラームの五柱と呼ばれる最も重要な五つの義務のひとつです。健康で十分な資金のあるムスリムは、少なくとも一生に一度ハッジを行なわなければなりません。ハッジは、ムスリムにとって信仰と実践の集大成というべきものです。預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ) は 、布教23年目に最後のハッジを行ないました。そして、その時に以下のクルアーンの節が啓示されました。

『…今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。…』食卓章 (5章)3節

また、この時のハッジに同行した約10万人の教友たち (彼らにアッラーのお喜びあれ) の前で、ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ) はイスラームの教えの要約とも言うべき『別れの説教』を行ない、イスラームの精神を再確認し、自分の死期が近いことをほのめかし、教友たちに自分の後を継いで布教を続けていくように命じています。私たちはムスリムとして、アッラーと最後の預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ) を信仰し、1日5回のサラート(礼拝)をし、ザカート(喜捨)を払い、ラマダーン月にサウム (断食) をし、ハッジを行い、預言者の教えに従って生きていくことが義務なのです。

B 審判の日

イスラームの重要な信仰の一つに審判の日があります。あらゆる人間は現世での生活を終えていつか死にます。アッラーが人間をこの世界に送ったのは意味のないことではなく、誰が信仰するか否かを試すためです。

ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。』撤き散らすもの章 (51章)56節

人間にとって短く、不条理なことも多いこの現世は、人間が精神的にいかに成長し、アッラーに認められて天国に入るかという重要な試練の場なのです。それが精算されるのが審判の日です。

ハッジの象徴的な意味の一つは審判の日の疑似体験です。ハッジの最も重要な行事は、特定の日にアラファートという荒野に一日とどまることですが、その時、巡礼着をまとい、現世の一切の地位や虚飾を捨てた巡礼者たちは、いつかは自分が直面しなければならない審判の日を思い出すのです。

またイスラームには、全人類の共同体 (ウンマ) という考え方があります。世界中のあらゆるムスリムは信仰によって結ばれた兄弟です。そしてイスラームでは、その理念を単なる理想にとどめないようにいくつかの実践があります。例えば毎日5回 のサラートは、基本的にはマスジド (マスジド) で集団で行なうものです。そして毎週金曜日のジュムアのサラートは、大マスジドにより広い地域の人々が集まります。毎年2回のイードの大祭には、マスジドには収容しきれない人数の人々が広場に集まります。このように社会性を重んじるイスラームが、全人類・全民族を信仰という、絆によってひとつに集める行事がハッジなのです。

C ハッジの歴史的背景

ハッジの精神はすべてのものを犠牲にする心にあります。それは個人的な楽しみ、現世の悦楽、金儲け、家族や友人との団らん、きれいな服やアクセサリーなどの虚飾、民族・教養・職業・地位などに対するプライドなどの全てをなげうって、アッラーに帰依する心なのです。

ハッジの行事の中には、預言者イブラーヒーム (アブラハム) に関わるものがいくつもあります。預言者イブラーヒームは一神教の父とも言うべき偉大な預言者です。彼はアッラーの命令により、自分の妻ハージャルとまだ赤ん坊の息子イスマーイールを砂漠の真ん中に置き去りにしなければなりませんでした。食料も水も尽き、ハージャルは水を求めてまずサファーの丘、続いてマルワの丘に登って水場を探しました。この行動を象徴する行ない (サイー) がハッジの行事の一つとなり、全巡礼者は彼女の行動を真似します。この時赤ん坊のイスマーイールが踵で掘った地面から水が湧き始めました。これがザムザムの井戸の起こりです。

またイスマーイールが、イブラーヒームにとって目の中に入れても痛くないほどに美しい少年に成長したとき、アッラーはイブラーヒームに息子を犠牲に捧げるように啓示しました。これは預言者としてのイブラーヒームの信仰を限界まで試すアッラーからの試練でした。彼はイスマーイールに相談しました。「わしはこのような啓示を受けたがどう思う」イスマーイールの答えは 「アッラーのご命令のとおりにしてください」というものでした。そこでイブラーヒームはナイフを携え、イスマーイールを砂漠に連れていきました。途中、悪魔が人間の姿をして現れ、叫びました。「気でも違ったのか、イブラーヒーム。お前は自分の息子を手にかけるのか。それが人の道か。」「帰れ、悪魔 !」イブラーヒームは石を投げて悪魔を追い払いました。悪魔はいったんは逃げ、再び道の途中でイブラーヒームの決心をひるがえそうとイブラーヒームに呼びかけました。 しかしそのたびにイブラーヒームは石を投げ、悪魔を追い払いました。ついにイブラーヒームが息子を地面に横たえ、その首にナイフの刃をかけようとしたその時、アッラーは預言者イブラーヒームの決心が不動なのを確認し、イスマーイールを犠牲に捧げさせる代わりに天から羊を送り、預言者イブラーヒームとその息子を祝福しました。 この父母と息子のアッラーに対する信頼と犠牲の精神を讃え、この世の終わるまで信者の手本とするため、ハッジではこれらの故事に基づく行事がいくつもあるのです。

D 聖地マッカ (メッカ) とカアバ

カアバは、元来預言者イブラーヒームとイスマーイールがアッラーを讃え、かれに祈るための建物をアッラーに指定された場所に建てたものがその原型です。その後何度も再建され、現在のような立派な建物になりましたが、位置はそのままです。これはイスラーム以前から唯一神を信仰する場所としてありましたが、預言者ムハンマド (後の上に祝福と平安あれ) が送られる直前にはマッカの多神教徒に支配され、巡礼の行事はそのままに、偶像崇拝の場所になっていました。ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)によって偶像が駆逐され、それ以来カアバは一神教の中心地として存続しています。

現在の建物は石を積みあげて作られた三階建てのビルくらいの大きさの建物で、全体を金の刺繍を施した黒い布ですっぽりと覆っています。扉がついていますが、中には何もありません。この建物はあくまでも象徴の意味であって、中に本尊があるとか、ムハンマドの遺品に関わるものがあるということではありません。アッラーは時空を超越する御方ですが、人間には方向がありますので、信者たちが揃ってサラートする方向として、カアバはその一点を示しているのです。

E ハッジとウムラ

巡礼の行事にはハッジ (大巡礼)とウムラ (小巡礼)があります。ハッジは健康で十分な資力のあるムスリム全てが一生に少なくとも一度は行なわなくてはならないムスリムの義務です。そして、ハッジを行なう時期はヒジュラ暦 (イスラームの暦)によって定められていて、自分の好きな時に行くというわけにはいきません。 しかしウムラは一年中いつでも好きなときに行なうことができます。また儀式もウムラがマッカ市内で数時間で済むのに対し、ハッジの場合はマッカ郊外の数ヶ所を訪れ、行事も数日に及びます。ハッジを行なうためにマッカを訪れたときに一緒にウムラを行なうことも出来、ハッジとウムラはその組み合わせ方によってハッジ・タマット、ハッジ・キラーン、ハッジ・イフラードの3種類あります。

ハッジ・タマット

最初にウムラを行ない、髪の毛を剃るか切るかして一旦イフラームを脱ぎます。そしてハッジの当日に再びハッジのためにイフラームを着ます。ハッジの最後に犠牲の動物を捧げます。

ハッジ・キラーン

最初にウムラを行ない、そのまま髪を剃らずイフラームも脱がないままでハッジの当日まで待ちます。ハッジの行事が終わり、犠牲の動物を捧げてから髪を剃るか切り、イフラームを脱ぎます。

ハッジ・イフラード

最初からハッジだけを目的にイフラームを着てマッカに入ります。ウムラは行なわず、ハッジが終わるまでイフラームも脱ぎません。ハッジの行事が済んでからイフラームを脱ぎます。犠牲の動物は捧げる必要はありません。

F ハッジヘ出発するとき

ハッジあるいはウムラに出発する人は、事前にサウジアラビア大使館に問い合わせ、必要書類をそろえます。航空券やビザ、予防注射などの準備をして身辺を整理します。一般の旅行に必要な荷物の他に、巡礼着、ビーチサンダル、ポーチ、日傘などを用意します。

ミーカート

ハッジやウムラのためにマッカに行く人は、マッカを含む特定の地域に入る前にイフラーム (巡礼着)を着用していなければなりません。この境界のことをミーカートと言います。日本から飛行機でジッダ空港へ行く場合、ジッダに着く前にミーカート上空を通ってしまいますので、その前にイフラームを着ていなければいけません。飛行機の中で着るか、あるいは一般的には例えば飛行機がバンコクからジッダに飛ぶような場合、バンコクでイフラーム着用を済ませてから飛行機に乗ります。

G イフラーム

男性の場合イフラーム (巡礼着) は縫い目のない二枚の白い布です。一枚を下半身に巻き、もう一枚で上半身を覆います。眼鏡や時計、貴重品入れなどは許されますが、下着などの縫い目のある衣服、帽子など頭を覆うもの、靴など足の甲の骨をおおう履物は着用してはいけません。ただし日除けのために傘をさすことは許されます。女性の場合は特別な巡礼着を着る必要はなく、イスラームの規則にかなった簡素な服装で顔と手首から先を除く全身を覆います。

イフラームとは単なる服装ではなく、巡礼のために特別に身を慎む状態に入ることを意味します。そこで巡礼着を身に着けるときには、まず入浴し、身体に香水などをつけ、巡礼着を着用してから2ラカーのサラートを捧げ、それからイフラームの状態に入るというニーヤ (意志表明) をします。

イフラームのニーヤ (意志表明)

例えばタマットゥの場合、イフラームのニーヤは次の通りです。

「ラッバイカ ウムラタン ムタマッタアン ビハー イラルハッジ」

ひとたびイフラームの状態に入ると、ハッジかウムラの行事を終えるまで普段着を着ることはできません。また、イフラームの状態のときには、以下の事柄が禁じられます。

  • 通常ムスリムに禁じられていること全て
  • けんか、口論、他人を傷つけること
  • 夫婦生活・妻に性的な意味で触れたりキスをしたりすること。それをほのめかすような話、しぐさなど全て
  • 草木を含む一切の殺傷・蚊も殺さず、草一本も抜かないこと
  • 自分の爪、体毛 (髪の毛・ひげなど全て) を故意に切ったり剃ったり引き抜いたりすること (しかし入浴中に自然に抜ける毛は構いません)
  • あらゆる香料 (香水、香料入り石鹸、香料入リシャンプー)の使用 (ただし香辛料入りの食物は構いません。洗濯や入浴は無香料石鹸、あるいは石けんを使わずに行ないます)
  • 男性が縫い目のある服を着たり、頭を覆うこと

H タルビヤ

イフラームのニーヤをすると、ただちにタルビヤと呼ばれる次の言葉を唱えます。

「ラッバイカッラーフンマ ラッバイク ラッバイカ ラーシャリーカラカ ラッバイク インナルハムダ ワンニヤマタ ラカワルムルク ラーシャリー カラク」

意味:(アッラーよ! 私はここにおります。あなたの御前におります。あなたには同位者はおりません。あらゆる賞賛はあなたのためにあり、あらゆる恵みはあなたから来ます。力はあなたにのみ属します。あなたに同位者はありません)

このタルビヤはウムラのタワーフを始める直前、またハッジの最初の石投げの直前まで、男性は大きな声で、女性は小さな声で唱え続けます。

I ウムラ

マッカに着いたらまず宿をとり荷物を置きます。それからカアバのあるマスジドゥ・ル・ハラームに行きます。カアバ (黒い建物) の向かって正面左手に黄金の扉がありますが、さらにその左側の角に黒い石 (ハジャル ・アスワド) があります。これがタワーフ (カアバの周回) の起点です。そこでタワーフを行ないますというニーヤをアッラーに対してします。黒石の正面には位置を表す線が色の異なる石で引いてありますから、その上に立ち、黒石にキスするか、手を触れるか、あるいは離れた所から手をかざしてから 「ビズミッラーヒ・アッラーフアクバル・ワリッラーヒルハムド」と唱えます。

それから反時計回りに7回、カアバの周りを回ります。男性は最初の3周は右肩に掛けていたイフラームの布を右脇に通して巻き、右肩をさらけ出した状態で力強く早足で回ります。3周が終われば服を元に戻し、歩くペースで回ります。タワーフの間はアッラーを讃え、さまざまな言葉で祈ります。どんな特定の祈りも決まっていません。クルアーンやズィクル、あるいは個人の祈りなど何でも構いません。一周ごとに黒石に手をかざし、同じ言葉を唱えます。7周終えたら、最後に起点に戻って同じように手をかざし、同じ言葉を唱えてタワーフを終了します。

それからできればカアバの扉の前にあるマカーム・イブラーヒームのそばで、もしできなければマスジド内のどこででも、2ラカーのナフルのサラートを捧げ、ザムザムの水を飲んで一休みします。

それからサファーの丘に登ります。サイーの意志をし、丘の上で祈ってから今度はマルワの丘へ行きます。途中、廊下の緑色ランプが点いている区間では、男性は小走りに走ります。マルワの丘で祈った後、再びサファーの丘に行き、このようにして7度 、つまり合計3往復半サファーとマルワの丘を行き来して最後はマルワの丘で終了します。この行事をサイーといいます。

ウムラ自体はこれで終了です。続けてハッジ・キラーンを行なうのではない場合、頭を剃るか頭髪の一部を切ってイフラームを脱ぎます。

J ハッジ

ズル・ヒッジャ月8日

ハッジのためにマッカに集まったムスリムたちは朝、一斉に数キロ離れたミナーヘ向かいます。そこにはテントが用意されてあり、そこに1日滞在します。ズフル、アスル、マグリブ、イシャー、ファジュルの5回のサラートを時間通りに行ないます。そこでズィクルやドゥアー、祈りやクルアーン読唱などに時間を費やし、明日に備えます。

ズル・ヒッジャ月9日

翌朝、ファジュルのサラートを済ませ、日の出の後、再び巡礼者の群れはミナーよりさらに数キロ先のアラファートヘと向かいます。これは百万人以上の巡礼者を収容できる巨大な荒野です。ここで巡礼者たちは日が暮れるまでアッラーに祈りを捧げます。このアラファートに一時とどまること (ウクーフ) はハッジの最も重要な行事であり、巡礼者は谷の領域内に必ず足を踏み入れるように注意しなければなりません。アラファートの谷の境界を示す塔がいくつか立っています。巡礼者はアラファートでズフルとアスルのサラートを捧げます。

日暮れとともに、アラファートに集まっていた巡礼者たちはマグリブ (日没後) のサラートを行なわず、そのまま一斉にミナーの方面へ移動し始めます。そしてミナーの少し手前のムズダリファという所で野宿します。巡礼者はそこでマグリブとイシャーのサラートを行ないます。そこでいくつか小石を集めます。

ズル・ヒッジャ月 10日

翌朝、ムズダリファにてファジュルのサラートが終わった後、ミナーに戻った巡礼者たちは、マッカとミナーの間にある三つの石塔 (ジャムラ) の第3番目 (最大でマッカ寄りの) に小石を投げる儀式を行ないます。小石は右手の親指と人差し指でつまめる大きさで、7個を1個づつ投げます。投げるとき 「ビスミッラーヒ・アッラーフアクバル」と唱え、預言者イブラーヒーム (彼の上に祝福と平安あれ) の試練を思い、自分自身の欲望や悪魔の誘惑と戦う決心をします。

石投げを終え、再びミナーに戻ってから動物を犠牲に捧げます。これは1人につき羊か山羊1頭 、あるいは7人で牛かラクダ1頭です。

犠牲が終わると剃髪するか髪の毛の一部を切ってようやくイフラームを脱ぐことができます。 しかしこの後、マッカに戻ってもう一度タワーフ・ル・イファーダを済ませるまでは、夫婦生活は許されません。

上記の行事の後、ズル・ヒッジャ10日あるいはズル・ヒッジャ11日にタワーフ・ル・イファーダを行なうこともできます。また、ズル・ヒッジャ10日は全世界でイードゥ・ル・アドゥハーの大祭の日にあたります。

その後巡礼者は少なくともズル・ヒッジャ11日・12日まではミナーにとどまり、その間毎日3つの石塔に向かって小さい石塔から順番に石投げの儀式を行ないます。10日の石投げの行事では日の出から正午までの間に最も大きな石塔に向かってのみ石を投げました。けれども11日、12日には、正午から日没までの間に三つの石塔すべてに石を投げます。ただし女性はこれを夜に行なうことが許されています。

ズル・ヒッジャ13日 までミナーにとどまることもできます。しかし、もしズル・ヒッジャ12日にミナーを去るつもりならば、必ず日没前に去らなければいけません。

こうしてめでたくハッジの全行事を終えた巡礼者たちは、自分の好きなだけマッカにとどまり、マスジドゥ・ル・ハラームでサラー卜をしたり、マディーナヘ行って預言者のマスジドを訪れたりできますが、マッカを去る前には必ず最後に 「別れのタワーフ (タワーフ・ル・ワダー)」をしなければなりません。これをもってハッジの行事は完全に終了します。

K マディーナの訪問

ハッジの義務ではありませんが、ほとんどの巡礼者はハッジの前か後にマディーナ市を訪れます。マディーナは預言者マスジドや歴史的な場所が多数あり、預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)が 埋葬されている地です。またイスラームが地歩を固め発展していくきっかけになった場所でもあります。この地にある預言者マスジドを訪れることは強く勧められています。

マディーナ市へはマッカからバスで8時間位です。途中多くダルード (預言者への祝福を求める祈り) を唱え続けます。

マディーナ市へ着いて宿に荷物を置いたら、なにはともあれ預言者マスジドに行きます。一般のマスジドに必要なあらゆる尊敬のルールが預言者マスジドにも適用されます。マスジドの中で2ラカーのサラートを棒げた後、キプラに向かって左手、建物の外から見ると丁度緑色のドームの真下にある預言者ムハンマド (彼の上に祝福と平安あれ)の墓を訪れます。墓は真鍮のグリルによって保護されています。その正面に面と向かってから、平安あれの挨拶を送ります。その時過度に激して泣き出したり、他の訪問者の妨げとなるくらい延々と祈りをあげるのは良いマナーではありません。

預言者 (彼の上に祝福と平安あれ)へのあいさつの後、彼の傍らに埋葬されているアブー・バクルとウマルにも平安あれとあいさつを送ります。マディーナには預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)の墓以外にも、サハーバの多くが眠る墓地ジャンナトル・バキ、ウフドの戦場跡、イスラーム最初のマスジドであるクーバ・マスジドなどの名所があります。これらを訪れるのも良いでしよう。しかしマディーナにいる間はできる限り預言者マスジドを訪れ、その中で祈り、アッラーに許しを求めるようにします。

さて、ハッジの行事が全て終わり、自分の国へ帰る時がやって来ました。ハッジを行った者は以前の罪を全て許され、生まれたばかりの赤ん坊のように罪のない状態になります。そこで巡礼者は自分の人生を再出発し、生涯罪から遠ざかる決意で帰途につきます。

 

>『アキーダとイバーダ』より

 
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