アッ=ドハーン(アラビア語: الدخان, ad-dukhān、意味: 煙)は、59節からなるクルアーンの第44章(スラー)である。「煙」を意味するドハーンという言葉は10節で言及されている。 حم 最初の節はクルアーンの Muqatta’at(いくつかの章の冒頭に現れる文字の組み合わせ)の一つである。
本章の啓示は、世俗的なうぬぼれや権力が、霊的な力に抗おうとしたところでいかに粗末なものであるか、また善悪の真の意味が、来世においていかに見出されるかを明白に説き明かすものである。37節ではトゥッバウの民について言及しているが、ある解釈者たちはこれはシバの民を指していると説明している。
啓示と時期と文脈的背景については、これは前期の “メッカンスラー “であり、メッカで啓示されたと信じられている。
الدخان【アラビア語】
煙霧 アッ・ドハーン 朗読音声
煙霧 アッ・ドハーン【日本語訳】
慈悲あまねく、慈悲深いアッラーの御名において。
1 ハー、ミーム。 2 明らかな啓典にかけて。 3 本当にわれらは、これを祝福された夜のあいだに下した。本当にわれらは、(絶えず) 警告し続けている。 4 その (夜の) あいだは、知恵ある決めごとのすべてが識別される。 5 われらからの命令として。本当にわれらは、(絶えず使徒を) 遣わし続けてきた。 6 あなたの主からの慈悲として。本当にすべてを聞く御方。すべてを知る御方。 7 諸天と大地と、そのあいだにあるものすべての主。もしあなたがたが、確信しているものなら。 8 この御方の他に、いかなる神もない。生かしも、死なせもする。あなたがたの主であり、またあなたがたの、大昔の先祖の主でもある御方。 9 いいや、しかし彼らは疑念の中で遊びごとに興じている。 10 (ムハンマドよ、) それゆえ見守っていなさい、天が明らかな煙をもって来るその日、 11 (それは) 人間を覆うだろう。これは、痛烈な懲罰となるだろう。 12 「私たちの主よ、懲罰をとり除いてください。本当に、私たちは信仰者になっています」。 13 どうして彼らが戒めを得られるだろうか。彼らには、すでに (警告を) 明らかにする使徒が到来していたのに、 14 彼らは彼に背を向けて、「(他の誰かから) 教わった者だ」「とり憑かれた者だ」などと言った。 15 われらが、わずかでも懲罰をとり除くと、あなたがたは必ず (信仰以前のあり方に) 後戻りする。 16 われらが至大の一撃を振るうその日。本当にわれらは、報復するだろう。 17 すでにわれらは、彼ら以前のフィルアウンの民も試みた。彼らに貴い使徒が到来し、 18 「アッラーのしもべたちを、私に引き渡しなさい。本当に私は、あなたがたにとり信頼に足る使徒である。 19 アッラーに対し、高ぶってはならない。本当に私はあなたがたのところへ、明らかな権威をもってやってきた。 20 私は、私のの主であり、またあなたがたの主である御方に加護を求めました。さもないとあなたがたは、私を石打にするでしょう。 21 もしあなたがたが私を信じないのなら、私から離れていなさい」。 22 彼は主に祈った。「これらは、罪を犯す民です」。 23 「われのしもべたちを連れて、夜に旅立ちなさい。あなたがたは、必ず追われるだろう。 24 海は、(渡った後も) そのままにしておきなさい。彼らは、必ず溺れる軍勢である」。 25 どれほど (多く) の庭園と泉を、彼らは後に残しただろうか、 26 また田畑や、立派な屋敷や、 27 また、彼らを歓喜させた諸々の至福を。 28 (彼らの最期は) このようなとおり。そしてわれらは、他の民にそれを継がせた。 29 天も地も彼らのために泣いてはくれず、また彼らが、猶予されることもなかった。 30 われらはイスラエルの民を屈辱の懲罰から救った、 31 またフィルアウンからも、本当に彼は、行き過ぎた者の中でもいっそう高ぶっていた。 32 われらは、意図するところあって彼らを諸世界 (の万民) の上に選び、 33 その中に明らかな試練が込められた、諸々のしるしを与えた。 34 本当に、これらの者は言う。 35 「私たちにあるのは一度めの死だけ。私たちが、再び起こされることはない。 36 もしあなたがたが真実を語っているのなら、私たちの先祖を連れ戻してみせよ」。 37 彼らは、あるいはトゥッバウの民やそれ以前の人々よりもすぐれているのか。われらは彼らを破壊した。本当に彼らは、罪を犯した者たちであった。 38 われらは諸天と大地と、またそのあいだにあるものを、たわむれに創造したのではない。 39 われらはそのいずれも、ただ真理により創造した。しかし、彼らの多くはそれを知らない。 40 本当に、決着の日とは彼らすべてに定められた時。 41 その日、友はその友の役に立たず、彼らにはどのような助けもない、 42 アッラーの慈悲にあずかった者を除いて。本当にもっとも威力ある御方。もっとも慈悲深い御方。 43 ザックームの木は、 44 罪ある者が食べるもの。 45 それは溶けた銅のように、下腹の中で煮えたぎる。 46 熱湯が煮えたぎるように。 47 「捕えて、業火のただ中に引きずりこめ。 48 そののちに、頭上から熱湯の懲罰を注げ」。 49 「味わえ、おまえは力強い者、高貴な者なのだろう。 50 そしてこれこそ、あなたが疑ってきたもの」。 51 畏れる者は、安全なところに入る、 52 庭園と泉の中に。 53 上等の絹や錦を身にまとい、互いに向かい合う。 54 このようなとおり。われらは彼らを、すばらしい瞳の美しきものと連れ添わせよう。 55 その中で彼らは、すべての果実をつつがなくやすらかに呼び求め。 56 その中で彼らは、一度めの死の他に (二度と) 死を味わうこともない。かの御方は、業火の懲罰から彼らを保護するだろう、 57 あなたの主からの御恵みとして。大いなる成就とは、まさしくこのこと。 58 われらはこれ (クルアーン) を、あなたの舌にとりたやすいものにした。彼らも、戒めを憶えておくようになるだろう。 59 (ムハンマドよ、) それゆえ守っていなさい。本当に、彼らもまた待っているのだから。
煙霧 アッ・ドハーンの解説と解釈
☪︎ これを祝福された夜のあいだに下した
「祝福された夜」とは、一般には、ラマダーン月のおそらく二十七日目の夜であるとされる。栄光の夜、あるいは威力の夜とも呼ばれる。創造主から啓示の降り注ぐ夜は、まさしく祝福された夜というにふさわしく、それはまるで荒野に慈雨が降るかのようである。
クルアーンが完全に明瞭であることは、それ自体が神の書であることの証拠であり、そうである以上、その啓示と警告もまた決定的なものである。それらを疑う余地はない。
クルアーンの啓示の始まりは、ある特別な夜、つまり神の重要な意志決定により選ばれた夜に行われた。クルアーンの啓示は単純な出来事ではなかった。それは歴史の新しい時代の幕開けを告げる決断の結果であった。だからこそ、この特別な祝福に満ちた夜に啓示されたのである。第一に、クルアーンは真理の啓示だった。そして現在でも真理の啓示を続けている。それは、多神教の虚偽と神の唯一性の真理を示すために誕生した。最も重要なことは、真理と虚偽を区別するための基準を人間に提供することである。
☪︎ 天が明らかな煙をもって来るその日
ここでの「煙」の意味は、解釈者によってふた通り存在する。(1) 煙とは、飢饉と干ばつを意味する。預言者ムハンマドの時代に飢饉と干ばつが起き、クライシュ族の人々が預言者を訪れ、この苦しみからの解放を願ったという。(2) 煙とは世界の終わり、すなわち「終末の刻」の徴である。預言者ムハンマドの伝承によれば、その時、東から西まで煙に覆われるという。
人々が疑念を抱いていたクルアーンの主題は、神の存在ではなく、神の唯一性であった。彼らは神の存在を受け入れながら、伝統的な方法で先祖や指導者たちの宗教を実践し続けた。
クルアーンによって祖先の信仰が根拠のないものだと証明されたものの、彼らはこの事実を受け入れようとはしなかった。その一方で、祖先や指導者たちの持つ偉大なイメージを心の中から消し去ることができなかった。このジレンマが、彼らを疑いの念に追いやった。神の預言者は、彼らにとってあまりにも小さな人物に見え、受け入れることも、自分たちのいわゆる偉人たちを見捨てるようにという預言者の忠告に従うこともできなかった。
反抗的な者を除き、神は自らの被造物すべてに対し、あらゆる機会を授ける。同時に、時として神は様々な試練も授ける。一人ひとりが理性を働かせるか否かを確かめるためである。
真理を受け入れようとしない者は、罰の危険にさらされることになる。
☪︎ われらが至大の一撃を振るうその日
真理を求める声は、理性という形をとった神の力の現れである。このように、神は人間を通して御自身を示されるが、見えないままである。それゆえ、神の呼びかけは、応じる者にとって試練となる。真理を求める者はそれを認め、その前にひれ伏す。見たものにこだわる者は、それを無視し、重要でないと考える。
しかし、真理を受け入れよという呼びかけを拒否した後、人間はその結果に向き合うことを避けられない。預言者が生きていた間、この破滅的な結果は、エジプトのファラオの場合と同じように、現実の世界そのもので明らかになった。神の裁きが直ちに現れないと、否定する者たちは死後、自分たちの行いの結果に直面しなければならなかった。
預言者ムーサーは、フィルアウンの手勢の脅威に対して何ら警戒することはなかった。彼はただ、次のように告げた。「私の主であり、またあなたがたの主である御方に加護を求めます」。
☪︎ 海は、そのままにしておきなさい。彼らは、必ず溺れる
神の言葉を説くことで、 フィルアウンの民を正しい道に導くためにムーサーは長い間努力した。その真理の呼びかけを行う任務は終わりを告げた。その時、ムーサーはエジプトを去り、イスラエルの民とともに旅立つよう指示された。旅に出た彼らは、紅海のほとりにたどり着いた。フィルアウンと彼の軍隊は、ムーサーとイスラエルの民を猛追していた。
ムーサーと彼の民が渡れるよう海が割れ、彼らは海と海との間を歩いて対岸へ渡りきることができた。しかしその様子を見て誘い込まれたフィルアウンの軍勢が、彼らの後に続こうとしたところ、海はたちまち閉ざされて彼らを飲み込んだ。
フィルアウンは、海を横切る道ができているのを見て、ムーサーがしたように自分も海を渡ることができると考えた。しかし、海を横切る道は、普通の意味での単なる道ではなかった。海は神の命によって裂け、ムーサーを救い、フィルアウンを滅ぼすためのものだった。そのため、フィルアウンとその軍隊が海に入ると、道の両側から水が押し寄せ、元の水位まで上昇した。フィルアウンはその軍勢とともに溺れ死んだ。
この世で恵まれたよい暮らしをしている人は、しばしばそれらを自分のものと考えがちだが、実際には、これらのものは自分のものではない。神は、お望みならいつでも、誰にでもそれらをお与えになり、そして、お望みならば、それらを取り上げて、他の誰かにお与えになる。
☪︎ 意図するところあって彼らを諸世界の上に
この世界では、ある国が滅び、別の国が台頭することは偶然には起こらない。また、ある残酷な国が、その抑圧的な方法によって他の国を征服したということでもない。そのような出来事はすべて、人間の試練のために、神の決定に従って起こる。神の裁量で、ある者には支配を、別の者には服従をお決めになる。神が何を決定しようと、それは神の知識に基づくものであり、恣意的なものではない。
つまり、何が起ころうとも、それはその人に見合ったものである。神の全知識に照らして、さまざまな民族をご覧になり、神がふさわしいとお考えになる国々には支配権を与え、ふさわしくないとお考えになる国々は退位させ、服従させることをお決めになる。
諸国民の生活には、どのような運命にあったとしても、それが神の決定によるものであることを示す兆候が現れる。鋭い見識があれば、さまざまな国々について神が下した決定に至る原因を垣間見ることができるだろう。
☪︎ その中に明らかな試練が込められた、諸々のしるしを与えた
奴隷の身分から解放されたイスラエルの民は、のちにダーウードとスライマーンによって栄光の王国が築かれる乳と蜜の流れる地へ運ばれた。しかし選ばれた存在であるからといって、自分たちが何を行うかを選べる存在になれるわけではない。その意味では、神の御前において「選ばれし民」は存在しない。神はあらゆる民族、あらゆる個人に機会を与えるが、ふさわしくなければその場から退けられ、代わりに他の者がその地位を授かるだけである。イスラエルの民に授けられた数々の恩恵として、ムーサーの授かった啓示や、豊かな地カナーン、ダーウードとスライマーンの統治する壮大な王国、そして失われたものを取り戻すためのイーサーの到来などが挙げられる。
☪︎ トゥッバウの民やそれ以前の人々よりもすぐれているのか
「トゥッバウ」とは、古代イエメンのヒムヤール族の王たちの称号である。この民族は紀元前300年から紀元前115年まで隆盛を誇り、その偉大さは古代アラビアで語り継がれてきた。トゥバ族の栄枯盛衰は、クルアーンの最初の対象者たち(クライシュ族)にはよく知られた歴史の一部であり、「罪と罰」の法則がこの世に広まっていたという事実を証明するものであった。同じように、すべての共同体には、その手本となり教訓となる『トゥッバウ』が存在する。しかし、人間はそのような出来事を何でもないこととして受け止めてしまう。その結果、神の意志によって出来事の中に潜んでいる教訓を学ぼうとせずにいる。
いつの時代も、人が道を踏み外す根本的な原因は、死後の生を信じることができないことにある。ある者はその不信感を口にする。また、死後によみがえり、神の御前で自分の行いの清算を受けなければならないという考えを全く持たない者もいる。
☪︎ たわむれに創造したのではない
天と地、ひいては宇宙全体の体系を考えてみれば、その創造には明確な目的があったことがわかるだろう。そうでなかったら、この世で人間が輝かしい文化を築くことは不可能だったはずだ。
その機能全体が有意義であることは、それがまた目的にかなった形で有意義に終わることを示している。そうでなければ、その終わりは想像を絶する。現実には、その終わりは来世の始まりを告げるものである。そして来世を信じることは、普遍的な意味の延長にすぎない。
世界の現在の段階は試練である。だから、誰もがこの世の意義の中に自分の価値を見出している。しかし、来世では、神の目から見て実際にふさわしい者だけが、来世の意義の一部を見出すことができる。
☪︎ そしてこれこそ、あなたが疑ってきたもの
死の後に続く生を信じず、人間に課された神に対する究極の責任を愚弄したことに対する懲罰である。懲罰が現実となるのを目の当たりにして、信仰なき者は現世にいた間に疑っていた来世が真実であったことをようやく知り、後悔することになる。
クルアーンによって描かれた地獄の絵は、自分の将来を真剣に考えるすべての人を揺り動かすのに十分である。
しかし、真理に関心を持たず、自分の欲にしか注意を払わず、真の世界を考える必要を感じない人々は、これを聞いても無視するだけだろう。そのような人々にとって、クルアーンの言葉は岩の上を流れる水のようなもので、その表面には一滴も浸透しない。
☪︎ 主からの御恵みとして。大いなる成就
これらの言葉は、人間が夢の中でしか見ることのできない楽園の世界を描いている。そこには、現世では手に入れることのできない、最も切望する世界がある。楽園に入れば、そのような夢のような世界に入ることができる。
この世で神を畏れた者には、あらゆる恐れのない道が開かれる。永遠の恩恵に満ちたそこでの生活は、そのためにこの世の一時的な恩恵を犠牲にした者への報酬となる。来世の最高の喜びは、成功をめざし、より高いものを求める勇気を現世で持った者だけが味わうことができる。
☪︎ あなたの舌にとりたやすいものにした
クルアーンは間違いなく偉大な啓典である。しかも非常に分かりやすい書物である。しかし、理解しやすいということは、導きを求める気持ちと直結している。言い換えれば、クルアーンを通して真理を見出そうとする者は、クルアーンが非常に簡潔であることに気付くだろう。しかし、真理を探求することに重きを置かない者、誠実でない者にとっては、クルアーンは不可解なものである。
SMOKE (ad-Dukhan)【英語訳】
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