イスラームが命じている物事
以下に示すのは、イスラームが命じている物事の一部です:
1-公正と平等
至高のアッラーはこう仰っています:
実にアッラーは、公正と善行と近親の者への贈与を命じられ、そして醜行と悪事と法を越えることを禁じられる。そしてあなた方が熟慮するよう、あなた方を戒められるのだ。(クルアーン 16:90)
イスラーム史上初のカリフであるアブー・バクルは、彼がその権威を委任された時に次のような言葉を語っています:
「あなた方が強者と見なす者たちは、私が彼らから彼らに義務付けられた物を拠出させるまで、私の目には弱者である。そして弱者は、私が彼らに彼らの権利を与えるまでは強者なのである。私がアッラーに従っているのを見る限り、私に従うのだ…。」
ムスリムは血縁が繋がっている者であろうと、そうでない者であろうと、分け隔てなく公正に接しなければなりません。至高のアッラーはこう仰いました:
そしてあなた方が(証言の時などに)言葉を口にする際には、例えそれが近親の者(にとって不利に働くようなこと)であっても、公正を貫くのだ。そしてアッラーとの契約を守れ。それこそかれ(アッラー)が、あなた方に命じられていることである。あなた方は思い出すことであろう。(クルアーン 6:152)
また公正は機嫌の良い時であれ悪い時であれ、また相手がムスリムであるかそうでないかを問わず、平等に貫かなければなりません。至高のアッラーはこう仰いました:
そしてある民に対する憎悪ゆえに、彼らに対する公正を損なうような罪を犯してはならない。公正を通すのだ。それこそはより敬神の念に近いのである。(クルアーン 5:8)
また至高のアッラーは、公正は時に力をもってでも行使しなければならないと宣言しています:
われら(アッラー)は、明証と共にわれらの使徒たちを遣わした。そして彼らと共に啓典と秤も下したが、それは人々が公正を行使するためだったのである。またわれらは鉄を下したが、そこには絶大な力と人々への益が潜んでいる。(クルアーン 57:25)
イスラーム中世期の大学者イブン・タイミーヤはこの節を注解するにあたり、こう言っています:
「諸使徒と諸啓典が下された目的は、人間が正義を行使するためである。そしてそれはアッラーの諸権利と、被造物の諸権利を満たすことで達成される。啓典から逸脱する者は、“鉄”によって矯正されなければならないのだ。」
2-他者優先の精神
それこそは社会にその影響が明瞭に反映されるところの、他人に対する真の愛と好意の一つの印です。それによって個人間の結びつきは強まり、人は他人の援助と相互扶助へと促されるのです。至高のアッラーは、他者を優先する人々を称揚してこう仰いました:
そして彼ら(アンサール)は自らが貧困の中にあっても、彼ら(ムハージルーン)*のことを優先する。そして自らの吝嗇さから身を慎む者こそは、真に成功する者なのである。(クルアーン 59:9)(*「ムハージルーン」はマッカからマディーナへと宗教迫害を逃れて移住した信仰者たちで、「アンサール」は彼らをマディーナで迎え入れ、財や住居などの物質的側面と精神的側面から援助した信仰者たちのこと。)
3-良い仲間を探し、悪い仲間を避けること
預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は良い連れ合いと悪い連れ合いに関し、非常に優れた例えを用いてこう説明しています:「よい連れ合いと悪い連れ合いとは、ちょうど香水を運ぶ者とふいご(で炭)を吹く者のようなものである。香水を運ぶ者はあなたにそれをくれたり、またはあなたが彼からそれを買ったり、あるいは彼からよい香りを嗅ぐことが出来るかもしれない。一方ふいごで(炭を)吹く者はといえば、あなたの衣服を焦がしたり、あるいはあなたに悪臭を与えたりするだけなのだ。」(アル=ブハーリーの伝承)4-争っていたり、仲違いしていたりする者たちの調停
至高のアッラーはこう仰っています:
サダカ(施し)か善行か人々の間の調停かを命じるものではない限り、彼らの密談の多くには益がない。しかしアッラーのご満悦を望みつつそのようなことを行う者には、われら(アッラーのこと)がまたとない報奨を授けよう。(クルアーン 4:114)
人々の調停に入ることには、サラー(礼拝)やサウム(斎戒)などその他の義務的な崇拝行為のそれと同様の、多大な報奨が約束されています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:
「サウム(断食)やサラー(礼拝)やサダカ(施し)よりも位階の高い行いを教えてやろうか?人々の間を調停することである。人々の関係の悪化は、(宗教を)根こそぎにしてしまうものなのだ。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)
そしてイスラームはこの件‐人々の団結を維持し、分裂を阻止すること‐に関して、嘘をつくことを容認しています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「私は次の者たちを嘘つきとはしない:調停を望むがゆえに、人々の間を(事実とは違う)言葉でもって取り持つ者。戦争の際にそれを用いる者。そして(何らかの福利を意図した)夫婦間のそれ。」(アブー・ダーウードの伝承)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこうも言っています:
「人々の間を調停するために、善を広め、良いことを言う者は、嘘つきではないのだ。」(アル=ブハーリーの伝承)
5-自らの能力の範囲内で、あらゆる手段を用いて善と美徳を命じ、悪と非道を禁じること
これは不正や道徳的腐敗が広まるのを防止し、諸権利が確保されることを保障する、社会安全における一つの基礎です。尚イスラーム国家において履行されるべきものはイスラーム法以外のいかなる法律でもありません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「悪事を目にした者は、それを手でもって正せ。もしそう出来なければ、舌でもって正せ。そしてそれさえも出来なければ、心でもって正すのだ。そしてそれが最も弱い信仰心である。」(ムスリムの伝承)
こうしてイスラームのある側面に無知な者は学び、不注意な者は忠言を受けるのです。道徳的腐敗は善き人々が援助され、そしてアッラーの法が支持され履行される限り、正されるでしょう。至高のアッラーはこう仰っています:
そして善行と(アッラーの懲罰から身を守る)服従行為において互いに助け合うのだ。そして悪や憎しみにおいて互いに助け合ってはならない。そしてアッラー(のお怒りや懲罰の原因となるような事柄)から身を慎むのだ。実にアッラーは、その懲罰の厳しいお方である。(クルアーン 5:2)
預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は善を命じ、悪を禁じることでもたらされる状況に関して、次のような説明を施しています:
「アッラーの掟に従う者たちとそれを妨害する者たちとの関係は、ちょうど(出発する前の)船にその居場所を配置された人々の一団のようである。彼らの内のある者たちは甲板に、そしてある者たちは船室に配置されるが、船室に入れられた者たちは水が欲しくなったら(甲板にいる者たちの)上を跨いで行かなければならない。それで彼らはこう言う:“もし私たちが(水を得るために)船底に穴を開ければ、甲板にいる者たちを邪魔する必要はなくなる。”それゆえ甲板にいる者たちが彼らを好き放題にさせて置けば、彼ら全員が破滅するであろう。しかしもし彼らがそれを阻止すれば、彼らは全員助かるであろう。」(アル=ブハーリーの伝承)
またアッラーは、この行為をおろそかにしたがゆえに下った懲罰について、次のように言及しています:
イスラエルの民の不信仰者たちは、ダヴィデとマリヤの子イエスの舌によって呪われたのである。それは彼らが逆らい、法を越え、かつ彼らが行っていた悪行を禁じなかったからなのだ。彼らの行っていたことの、何と惨めなことか。(クルアーン 5:78-79)
更にイスラームは善を勧め悪を禁じることにおいて、遵守すべきいくつかの指針と原則を定めています。その一部を以下に挙げてみましょう:
1 この行為を行おうとする者が、何が勧められ禁じられるべきことなのかを熟知していること。これはそうする者が逆に人々を宗教から遠ざけたりしないためです。教友スフヤーン・ブン・アブドゥッラー・アッ=サカフィーはこう伝えています:私は言いました:「アッラーの使徒よ、自らの身を守ることの出来るようなことについて、何かご助言下さい。」彼は言いました:「“わが主はアッラー”と言い、自らを正すのだ。」私は言いました:「アッラーの使徒よ、私に一番恐れることは何でしょうか?」彼は彼の舌をつかんで、こう答えました:「これだ。」(アッ=ティルミズィーの伝承)
また著名なハディース学者の一人であるイブン・ヒッバーンは、この言葉に関してこう言っています:
「預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)が自らの舌をつままずに“舌だ”と言うことが出来たにも関わらず、そうはせずに敢えてそれをつまみつつ“これだ”と言ったのは、彼が人々への教授法を熟知していたからである。彼は自分が教えようとする知識を、適用したかったのだ。…彼はそれ以前に別の質問者に対して“私が最も恐れているものは、それ(舌)があなたを多くの試練へと追いやってしまうことである”と言っているのであり、既にそのことはご存知であった。…ゆえに彼は、喋り過ぎるのを控えるようにスフヤーンに命じたのである。それで預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は、人が知識を求めるべき場所とそれを伝えるべき時の違いを明らかにしつつ、彼の知っていることを実践したのである。」
2 何らかの悪を禁じることが、それよりも大きな悪につながらないこと。 3 自分が他人に禁じていることを、自ら犯したりしないこと。至高のアッラーはこう仰いました:信仰者たちよ、なぜ行いもしないことを口にするのか?行いもしないことを喋るのは、アッラーの御許で厭わしいことこの上ないことなのだ。(クルアーン 61:6)
4 何を薦めたり禁じたりするにせよ、優しさと親切心を忘れないこと。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:「優しさというものは、それをもって行われる全てを美しく飾りつけずにはいない。そしてそれを欠いたものは全て、醜くならずにはいないのだ。」(ムスリムの伝承)
5 その仕事を遂行するにあたって、いかなる不都合も耐え忍ぶこと。アッラーは賢人ルクマーンがその息子に対して与えた偉大な助言に関して、こう言及しています:息子よ、サラー(礼拝)を守り、善を勧め、悪を禁じ、あなたに降りかかる災難に耐え忍ぶのだ。実にそれは固い決意を要する物事である。(クルアーン 31:17)
6 よい作法:アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:「あなた方の内で最も信仰心を完結した者は、最も人格が優れ、そして最も家族に優しい者である。」(アッ=ティルミズィーの伝承)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、よい作法がもたらす報奨についてこう言っています:
「審判の日あなた方の内で最も私に愛され、かつ最も私に近しい座を占めるのは、最も人格の優れた者である。そして審判の日あなた方の内で最も私に嫌われ、かつ私から遠い場所にあるのは、お喋りが過ぎる者、己の言葉に酔いしれて語る者、そして“ムタファイイヒーン”である。」人々は言いました:「アッラーの使徒よ、私たちはお喋りが過ぎる者と己の言葉に酔いしれて語る者のことは知っていますが、“ムタファイイヒーン”とはどのような者でしょうか?」(預言者は)言いました:「驕慢な者のことである。」(アッ=ティルミズィーの伝承)
7 親切:アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:「実にアッラーは哀れみ深いお方であり、また哀れみ深さとよい作法を愛される。そして不躾さを厭われるのだ。」(アッ=タバラーニーの伝承)
8 何らかの裁決を下す前に、その基となる情報を確認すること:至高のアッラーはこう仰いました:信仰する者たちよ、放埓な者が何らかの知らせを携えてあなた方のもとにやって来たら、(その知らせの内容の正否を)確認するのだ。それは(誤った情報に基づいた行動により)あなた方が知らぬままある民に害を与え、それによってあなた方が行ったことに後悔しないようにするためなのである。(クルアーン 49:6)
9 誠実さ:アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました「宗教とは誠実さである。」人々は言いました:「誰に対する(誠実さですか)?」(預言者は)言いました:「アッラーとその啓典と、その使徒、そしてムスリムの指導者たち及び一般の者たちに対する誠実さである。」(ムスリムの伝承)
アッラーに対する誠実さとは、かれを信仰し、かれにいかなる共同者も認めずにかれのみを拝し、かれがその美名と属性においていかなる不完全性からも無縁であることを宣言することです。またアッラーこそが全宇宙の全ての物事の運営を一手に集めているお方で、かれが望んだことは必ずや実現し、かれが望まなかったことは決して起こらないということを信じることです。またここにはアッラーの命を遵守し、かれの禁じたことを回避することも含まれてきます。
またアッラーの啓典に対する誠実さとは、それがかれの御言葉そのものであり、最後の啓典であることを信じることです。またそこに言及されている命令を遵守し、そこで合法と宣言されているものを合法とし、そこにおいて禁じられている物事から身を慎むこともここに含まれます。
一方アッラーの使徒に対する誠実さとは、彼に服従し、彼が伝えた全てのことを信じ、彼が禁じたことから身を控えることです。また彼を愛し、尊敬し、彼のスンナ(慣習)を踏襲し、かつそれを普及させることです。
またムスリムの指導者たちに対する誠実さとは、罪深いことを命じられない限りにおいて彼らに服従し、彼らを最善の道へと導くことにおいて援助し、また彼らに対して反旗を翻すことを控えることなどを指します。ムスリムの指導者には良い形で忠言し、民衆の権利を想起させてやることが必要です。
そして 一般のムスリムへの誠実さとは、宗教的諸事に関しても現世的諸事に関しても、彼らを善と福利へといざなうことによって達成されます。彼らはその必要の満足と、害悪からの保護において援助されなければなりません。また彼らに対して自らに望むことを望み、自らに厭うことを厭い、自分自身がそう望むような形でもって彼らと接することも要求されてきます。
10 気前の良さ、寛容さ:アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:「良き作法よりも(善行の)秤に重い物はない。」(アブー・ダーウードの伝承)
そしてアッラーは、気前の良さの限界を定義づけて、次のクルアーンの説の中でこう仰っています:
そしてあなたの(施しの)手を(吝嗇さゆえに)首に巻きつけたままにしたり、または(度を越して、施しという)手を完全に開け広げてはならない。そうすればあなたは咎めを受けたり、後悔したりするであろうから。(クルアーン17:29)
11 他人の過ちを隠しておいたり、苦悩を和らげたり、困難を軽減してやったりすること:アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:「現世における信仰者の苦悩を一つ和らげる者は、アッラーが審判の日の彼の苦悩を一つ和らげて下さるであろう。そして(債務超過などで)困難な状況にある者に便宜を図ってやる者は、現世と来世においてアッラーが彼に便宜を図って下さるであろう。またムスリムを(その罪などによる悪評が人々に知れ渡ることなどから)かくまってやる者は、アッラーが現世と来世において彼をかくまって下さるであろう。アッラーはそのしもべが同胞を援助する限り、かれもその援助の手を差し伸べられるのだ。」(ムスリムの伝承)
12 忍耐心:それは服従行為における場合であったり、また禁止行為を自らに禁じる場合における場合だったりします。至高のアッラーはこう仰いました:そしてあなたの主の定められたことにおいて、辛抱せよ。実にあなたはわれら(アッラーのこと)の眼前にあるのだから。(クルアーン 52:48)
またこれは、貧困や飢餓、病気や恐怖などといった様々な試練の時に必要となる忍耐心である場合もあります。至高のアッラーはこう仰いました:
そして実にわれら(アッラーのこと)は、恐怖や飢え、財産や生命や糧の損害などによって、あなた方を試練にかけるのだ。それで忍耐する者たちには、良き知らせを伝えよ。(彼らは)災難が降りかかった時に「私たちは実にアッラーにこそ属し、そして彼の御許へと還り行く境遇にあります。」と言う者たち。彼らには主からの祝福とご慈悲があり、そして彼らこそは正しく導かれた者なのである。(クルアーン 2:155-157)
13 怒りを抑え、他人を赦すこと:例えやり返す力があったとしても。これは社会の構成員間の結束力を強化し、彼らの間の敵意や関係の断絶などから遠のけてくれます。至高のアッラーは、このような性質を獲得しようと努力する者に対して多大なる報奨を約束し、強く称えています。アッラーはこう仰いました:そしてあなた方の主からのお赦し(を呼ぶ諸々の服従行為)へと急ぐのだ。その広さは諸天と大地の広さほどもあり、敬虔な者たちのために用意されたものなのである。(そして彼らは)順境においても逆境においても施し、自分の怒りを抑え忍び、人をよく赦す者たち。アッラーは善行者を愛で賜れるのだ。 (クルアーン 3:133-134)
またイスラームは、他人から受けた悪行を善行をもって報いることを勧めています。そうすれば人々の心は結ばれ合い、復讐してやろうなどという気持ちがなくなるのはおろか、憎しみなども消え去ってしまうでしょう。至高のアッラーはこう仰っています:
そして善行と悪行は同じではない。(悪行をもって対されても、それに)よい行いでもって応じてやるのだ。そうすればあなたに敵対していた者も、親愛で近しい者となるであろう。(クルアーン 41:34)
イスラームにおけるマナー
イスラームという教えは、ムスリムがその教えに沿った一個の完全な人格を形成するために遵守することを勧められている、様々な種類のマナーを紹介しています。その内のいくつかを以下に挙げていってみましょう:
食事の際のマナー
1 ムスリムは「ビスミッラー(アッラーの御名において)」という言葉と共に、食事を開始すべきとされています。また食事を終えた際には「アルハムドリッラー(全ての賛美と感謝はアッラーにあり)」と唱えます。また食事の際には右手を用い、自分から近い場所から食べるようにします。ちなみにイスラームにおいて左手は、汚い物の洗浄などに用いることになっています。教友ウマル・ブン・アブー・サラマは、こう伝えています:「預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の存命時代、私は幼い子供でした。そして私の手は、(食事の載っている)皿の上を(お目当ての物を探して)さまよっていたものです。それでアッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は私に言いました:“僕、アッラーの御名を唱えるんだ。そして右手で、自分の手前の物から食べ始めるんだぞ。”そして私は現在に至るまで、その食べ方に従っているのです。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
2 ムスリムはいかにその食事が気に入らなくても、それに関する不平や批判の言葉を口にすることを禁じられています。教友アブー・フライラはこう伝えています:「預言者(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)が食べ物に難癖を付けることは、全くありませんでした。おいしければ食べ、気に入らない時は手を付けませんでした。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
3 ムスリムは食べ過ぎや飲み過ぎを避けなければなりません。至高のアッラーはこう仰いました:…そして飲みかつ食べよ。しかし浪費してはいけない。実にかれ(アッラーのこと)は浪費を愛で賜らないのだから。(クルアーン 7:31)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「人間が満たす最悪の器とは、その胃に他ならない。アダムの子ら(人類)は、背中を真っ直ぐに支えるだけの(少量の)食事で十分なのである。しかしもしやむを得ない場合には、(胃の)三分の一を食事に、そしてもう三分の一を飲み物に、そしてもう三分の一を(空っぽのままにして)呼吸のためにあてるのだ。”」(アッ=ティルミズィーとイブン・マージャの伝承)
4 イスラームにおいて、容器の中に息を吹き込むことは禁じられています。教友イブン・アッバースはこう伝えています:「アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はコップの割れ目から飲むこと、そして飲み物の中に息を吹き込むことを禁じられました。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承) 5 飲食物を粗末にすることは禁じられます。 6 ムスリムは単独ではなく、他の者たちと一緒に食事することを勧められています。ある者が、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)にこう言いました:「アッラーの使徒よ、私たちは食べても満腹しません。」(預言者は)言いました:「あなた方は別々に食べるのであろう。」(彼らは)言いました:「はい。」(預言者は)言いました:「集まって食事するのだ。そして食事の際にアッラーの御名を唱えよ。(アッラーは)あなた方のためにそれに祝福を与えて下さるであろう。」(アブー・ダーウードとイブン・マージャの伝承)
7 自分が招待を受けている際に、招待されてはいない誰かを同伴していく時には、招待者側からの許可を請うべきです。ある日アブー・シュアイブという者が預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)を含む五人の者を招待した時、それ以外の者が一人ついて来てしまったことがありました。それに関し、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:「この者は私たちに付いて来たのだが、望むなら彼のことも招待し、またそうでないならお断りして引き取ってもらえ。」招待した者は言いました:「いいえ、私は彼のことも招待しますとも。」(アル=ブハーリーの伝承)
用便の際のマナー
トイレに入る時には、祈願の言葉を唱えるべきとされます。教友アナスは、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)がトイレに入る時にはこう言ったものであると伝えています:
「アッラーよ、私はあなたに男女の悪魔からのご加護を乞います。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また預言者の妻の一人アーイシャによれば、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は用便を済ませて出てくると、こう言ったものでした:
「(アッラーよ、)あなたにお赦しを求めます。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーとイブン・マージャの伝承)
ムスリムは用便の際、キブラ(マッカの方向)に顔や背を向けたりすることを禁じられています。教友アブー・フライラは、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)がこう言ったと伝えています:
「排便する時にはキブラの方を向いたり、あるいはそちらに背を向けたりしてはならない。」(アブー・ダーウードとイブン・マージャの伝承)
またムスリムは屋外で用便する際には、人目のつかない場所に身を隠さなければなりません。教友ジャービルはこう伝えています:
「預言者は用を足したくなった時にはいつでも、誰の目にもつかないような場所に赴いたものでした。」(アブー・ダーウードの伝承)
またムスリムは用便を終えた際、汚い場所を洗浄するにあたって右手を用いることを禁じられています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「何か飲む時には、その器の中に息を吹き込むのではない。また用を足しに行く時には、右手で局部に触れるのでない。また右手で汚物を除去してもいけない。」(アル=ブハーリーの伝承)
許可を請うことにおけるマナー
1 誰かの家に入る際には、外から許可を請います。 至高のアッラーはこう仰いました:信仰する者たちよ、その許しを請い、家人に挨拶することなしには他人の家に入るのではない。(クルアーン24:27)
2 また誰かの部屋に入る際にも、同様に許可を請います。至高のアッラーはこう仰っています:あなた方の子供が成人したら、あなた方以前の者たちがそうしていたように、(入室の)許可を請わせるのだ。(クルアーン 24:59)
これらのマナーは家にいる者たちと、そのプライバシーの保護がその目的となっています。このことは、以下の預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の伝承からもうかがい知ることが出来るでしょう:
「預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)が櫛の歯で頭を掻いている時に、誰かが扉の穴から彼の部屋の中を覗き見ていました。彼はその者に言いました:“もしあなたが覗き見ていたのを知っていたら、櫛でもってあなたの目を突いてやったところだぞ。(見るべきではないものを)見ないためにこそ、許可を請うことが義務付けられたのだ。”」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また許可を請う者は、返答がないからといってしつこく許可を請い続けるべきではありません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:
「 (呼ぶなりドアをノックするなりして)三回許可を請うても返事がなかったら、立ち去るのだ。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また許可を請う者は、自らが誰であるかを知らせるべきです。教友ジャービルはこう伝えています:
「私は父の債務の件で、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)を訪問しました。彼のドアをノックすると、彼は言いました:“誰だ?”私は言いました:“私です。”すると彼はそれが気に入らなかったかのように、こう言いました:“私?私だって!?”」(アル=ブハーリーの伝承)
挨拶のマナー
イスラームは社会の構成員が、互いに挨拶を交わすことを奨励しています。それは挨拶が原因付けるところの、愛情と友愛を育むためなのです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:
「あなた方は信仰するまで天国に入ることはない。そして互いに愛し合うようになるまでは、本当に信仰したことにはならない。あなた方がそれを行えば、互いに愛し合うようになることを教えてやろうか?あなた方の間に挨拶を広めるのだ。」(ムスリムの伝承)
また挨拶を受けた者がそれに応じるのは、ムスリムとしての義務です。至高のアッラーはこう仰いました::
そしてあなた方が挨拶を受けたら、それよりもっとよい形の挨拶で挨拶するか、あるいは同じ言葉を返すのだ。実にアッラーはあらゆる事柄をも(仔細に)計算されるお方である。(クルアーン 4:86)
またイスラームは、挨拶における優先順位も明確にしています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:
「乗り物に乗った者は歩行者に、歩行者は座っている者に、少数の者たちは多数の者たちに挨拶するのだ。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
座る場所に関するマナー
ムスリムが集まりの場に臨んだり、あるいは退出する際には、その場にいる者たちに挨拶すべきとされています。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:
「あなた方が集まりの場にやって来たら、その場にいる者たちに挨拶するのだ。そしてもし座るべき状況にあると察したなら、座るがよい。そしてその場を立ち去る時にも、また彼らに挨拶をするのだ。最後の挨拶も、最初の挨拶同様に重要なのだから。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)
また集まりの場で十分な場所がなかったら、その場にいる者たちはやって来た者のために場所を空けてやらなければなりません。至高のアッラーはこう仰いました:
信仰する者たちよ、集まりの場で「場所を空けて下さい。」と言われたら、場所を空けてやるのだ。(そうすれば)アッラーがあなた方のために(天国の)場所を空けて下さるであろう。そして(礼拝、あるいは戦いなどのために)「立ち上がりなさい。」と言われたら、立ち上がるのだ。アッラーは、あなた方の内で信仰する者たちと知識を与えられた者の位階を上げられる。アッラーはあなた方が行うことを実によく通暁されておられる。(クルアーン 58:11)
また自分がそこに座るために、誰か既に座っている者を立たせることはイスラームで禁じられています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「座っている者を立たせて、そこに座ってはならない。むしろ場所を空けて、広くしてやるのだ。」(ムスリムの伝承)
もし席を立って一時的にそこを離れる場合、その者はその場所において優先権を握っていることになります。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「一旦どこかに腰を下ろした者が(そこを離れ、)そこに戻って来たら、その者はその場所に優先権を持っていることになる。」(ムスリムの伝承)
また隣り合って座っている二人の者の間に腰を下ろすことは、イスラームにおいて許されてはいません。但し彼らの許可を得たのであれば、問題はありません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「許可も請うことなく、座っている二人の者の間(に腰を下ろして)阻んだりしてはならない。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)
またイスラームは、第三者の前で内緒話をすることを諌めています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「あなた方が三人でいる時、一人をそっちのけにして二人だけで内緒話をしてはならない。それは彼を悲しませるであろうから。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また人々が輪になって集まっている所にやって来たら、その真ん中に座るべきではないとされます。教友フザイファは、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)がこう言ったと伝えています:
「集まりの中心に座る者は、呪われた者である。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)
また集まりの場で、アッラーの唱念や俗世や宗教に関する有益な話し合いをそっちのけにして、くだらない話に現を抜かすことは忌避されています。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:
「アッラーの御名を唱えることなく、集まりの場から立ち上がってはいけない。そのようなことをすることはロバの死体同然のものから立ち上がるようなものであり、またそれは彼らにとっての後悔となろう。」(アブー・ダーウードの伝承)
また集まりの場にいる者たちが嫌がるようなことも、すべきではないとされます。
集まりにおけるマナー
イスラームはどこにおいても、集まりに参加している人々の気分を配慮します。そしてそれは人々が集うことを望むようにさせるためでもあります。ゆえにイスラームはその信徒に清潔さと奨励します。ムスリムは他人を害するような悪臭を放つようではなりませんし、人々の気分を害さないように良いいでたちをするべきです。また同様にイスラームは、その場の話者を妨害することなく、その話に注意を向けることを促し、また人々に不便さを感じさせないようにするためにも、その場の人々の間を横切ったりせずに空いている場所に腰を下ろすことを勧めています。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は金曜礼拝の集まりに関して、こう述べました:
「金曜日に沐浴をし、持っている香水をつけ、また自分の持っている最上の衣服を身に着けモスクへと赴き、(そこで既に座っている)人々の頭を跨いだりせず、それから出来る範囲で(任意の)礼拝を行い、イマーム(礼拝の導師)が来場して礼拝するまで(その説教を)傾聴する者は、その日とその前の週の金曜日の間(に犯した罪)の贖罪をしたことになろう。」(アブー・ダーウードとイブン・マージャの伝承)
尚ムスリムはくしゃみをしたら、こう言うことを推奨されます:
“アル=ハムド・リッラー(アッラーにこそ全ての賞賛はあれ)”
そしてその言葉を聞いた者は、こう言わなければなりません:
“ヤルハムカッラー(アッラーがあなたを慈しまれるよう)”
それから今度はくしゃみをした者が、彼らに対してこう返します:
“ヤハディークムッラーフ・ワ・ユスリフ・バーラクム(アッラーがあなた方を導かれ、そしてあなた方の状態を正されるよう)”
アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「あなた方がくしゃみしたら、“アル=ハムド・リッラー(アッラーにこそ全ての賞賛はあれ)”と言うのだ。そしてその兄弟、あるいは同士は(くしゃみをした)その者にこう言え:“ヤルハムカッラー(アッラーがあなたを慈しまれるよう)”そして(くしゃみした者は)“ヤルハムカッラー”と言われたら、こう言うのだ:“ヤハディークムッラーフ・ワ・ユスリフ・バーラクム(アッラーがあなた方を導かれ、そしてあなた方の状態を正されるよう)”」(アル=ブハーリーの伝承)
またくしゃみの際のマナーに関して、教友アブー・フライラはアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)がこう言ったと伝えています:
「くしゃみをする時には手で顔を押さえ、その音を押し殺しなさい。」(アル=ハーキムの伝承)
またあくびをしたくなったら、可能な限りそれを押し殺すようにすることがムスリムのマナーです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「アッラーはくしゃみをを愛でられ、あくびを厭われる。ゆえに(ムスリムが)くしゃみをしてアッラーを讃えたら、それを聞いたムスリムは彼によい祈願をしてやる義務がある。一方あくびは悪魔からのものであるから、出来る限り抑えるようにせよ。彼が(大口を開けてあくびしつつ)“はぁー”などと言えば、シャイターンは彼を嘲笑するのだ。」(アル=ブハーリーの伝承)
またムスリムは人前でげっぷすべきではないとされます。教友イブン・ウマルはこう伝えています:
「ある者がアッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)と共にある時に、げっぷをしました。それで(預言者は)彼に言いました:“私たちの前でげっぷをしないようにせよ。現世で最も満腹な者は、審判の日に最も飢えに苦しまされる者なのだぞ。”」(アッ=ティルミズィーとイブン・マージャの伝承)
会話におけるマナー
ムスリムは話者が話を終えるまで中断させることなく、常にその話に注意を傾けていなければなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は別れの巡礼の際、教友の一人にこう命じつつ説教を始めました:
「人々に謹聴させよ。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また話すことが聴き手に良く伝わるようはっきりと話し、十分に説明することが必要です。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の妻の一人であるアーイシャは、こう伝えています:
「預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の言葉は、それを聴いたいかなる者でも理解出来るような明快なものでした。」(アブー・ダーウードの伝承)
また話し手は聴き手同様に、その話と表現において感じよく明朗であるべきとされます。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:
「いかなる善行も軽んじてはならない。例えあなたの同胞に笑顔で接することであっても。」(ムスリムの伝承)
またアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこうも言っています:
「人の各関節には一つのサダカ(善行などの施し)が課せられている。そして太陽の昇る日に*人々の関係を改善することはいつでも、一つのサダカである。また人が乗り物に乗るのを、あるいは彼の荷物をそこに載せるのを手伝うことも一つのサダカであり、良き言葉も一つのサダカである。また(モスクで)義務の礼拝をするために歩む一歩一歩はそれぞれ一つのサダカと数えられ、道から有害な物を除去することもまた一つのサダカなのである。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)(*つまり、そうする時期を問わないということです。)
冗談を言う時のマナー
イスラームにおける人生は時折誤解されるように、全く娯楽に欠けているわけではありません。ハンザラ・アル=ウサイディー(彼にアッラーのご満悦あれ)という教友はこう伝えています:
「私はアブー・バクルと会い、そして彼は私にこう言いました:“ハンザラよ、元気か?”私は答えました:“ハンザラは偽信者になってしまいました。”アブー・バクルは言いました:“アッラーの崇高さよ!一体何を言っているのだ?”私は言いました:“私たちがアッラーの使徒と共にいる時、彼はあたかもそれらが眼前にあるかのように地獄や天国を想起させてくれます。しかし彼のもとを離れると、私たちは妻や子供たち、現世の諸事に夢中になってしまい、(それらの訓戒を)ひどく忘れてしまうのです。”アブー・バクルは言いました:“アッラーにかけて、私も同様だ。”それで私とアブー・バクルは行き、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)のもとにやって来ました。私は言いました:“アッラーの使徒よ、ハンザラは偽善者です。”するとアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:“どうしてだ?”私は言いました:“アッラーの使徒よ、あなたと共にいると、あなたはあたかもそれらが眼前にあるかのように地獄や天国を想起させてくれます。しかしあなたのもとを離れると、私たちは妻や子供たち、現世の諸事に夢中になってしまい、(それらの訓戒を)ひどく忘れてしまうのです。”するとアッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:“私の魂がその御手に委ねられているお方にかけて。あなたが私のもとにある時のようなズィクル(唱念)の状態を(私から離れた後も)継続していれば、あなた方の寝床や行く道々で天使たちがあなたに握手をするであろう。しかしハンザラよ、(人間とは)時にこうあれば、またある時にはそうあるものなのだ。”(そして彼はその言葉を三回繰り返しました)」(ムスリムの伝承)
ここで預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は、禁じられてはいないある種の娯楽や気休めなどが人間の活気や活力を再生させるものとして、望ましいものである旨を説明しています。彼はまたその教友たちに訊かれ、冗談を言う時のマナーについても触れています:
「預言者よ、あなたは冗談を言いますか?」彼は言いました:「ああ。しかし私は真実しか語らないが。」(アッ=ティルミズィーの伝承)
またイスラームは口頭によるものは勿論のこと、動作によって楽しむことも禁じてはいません。教友アナスはこう伝えています:
「ザーヒルという名のベドウィンが、砂漠から預言者(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)のもとに贈り物を携えて来ていました。一方預言者も彼が立ち去る際には、彼にいくばくかの食料を与えたものでした。アッラーの使徒はこう言ったものでした:“実にザーヒルは私たちの遊牧地で、私たちは彼の定住地なのである。”ある日、彼が物を売っている所に預言者がやって来て、彼に悟られないように背後からつかみかかりました。ザーヒルは言いました:“誰だ?離せ!”そして彼は、振り向いた時にそれが預言者であることを知ると、(その愛情ゆえに先ほどまでそうされていたように)自分の背中を彼の胸につけました。預言者は(冗談で)言いました:“この奴隷を買う者はいるか?”ザーヒルは言いました:“アッラーの使徒よ、私は売るにも足らない者です!”すると預言者は言いました:“しかしあなたはアッラーの御許では、売るに足らない者などではないのだ。”あるいはこう言いました:“いや、あなたはアッラーの御許では高価なのだ。”」(イブン・ヒッバーンの伝承)
またムスリムは他人を不当に扱ったり、あるいは害することを伴うような類の冗談は言うべきではありません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「ムスリムが他のムスリムを怖がらせることは、許されない。」(アブー・ダーウードの伝承)
また彼はこうも言っています:
「誰もその同胞の物を、(彼を怒らせようとして)本気でもふざけてでも取ってはならない。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)
また冗談の際でも、嘘をつくことは禁じられます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「人々を笑わせるために嘘をつく者に災いあれ。災いあれ、災いあれ。」(アフマドとアブー・ダーウードの伝承)
病人をお見舞いする際のマナー
イスラームは病人を見舞うことを強く奨励します。それどころかそれを、ムスリム同士の義務であると見なしています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「ムスリムの、ムスリムに対する五つの義務:挨拶を返すこと、病人を見舞うこと、葬儀に参列することと、招待を受け入れること、そしてくしゃみをした者に“ヤルハムカッラー(アッラーがあなたを慈しまれるよう)”と言うこと。」(アル=ブハーリーの伝承)
イスラームは病人の同胞を見舞うことにより、素晴らしい報奨を約束しています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「病人を見舞う者は、(そこから帰るまで)ずっと天国の果樹園の中にある。」(ムスリムの伝承)
病人を見舞う者は、彼らに対して慈愛と同情の念を示すことが勧められます。教友アーイシャ・ビント・サアドは、彼女の父親がこう言ったと伝えています:
「私がマッカで病気だった時、預言者が私のお見舞いに来てくれました。彼は私の額に手を当て、私の胸と腹を撫でると、アッラーにこう祈って言いました:“アッラーよ、サアドを癒したまえ…。”」(アブー・ダーウードの伝承)
またムスリムは病人に対し、祈りを捧げてやることが望まれます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「まだ息を引き取っていない病人を見舞い、彼のもとで:“この上なく偉大なアッラー、偉大な玉座の主に、あなたを癒して下さいますようお願いします”と七回唱えるならば、アッラーが彼をその病から癒して下さらないことはない。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)
弔辞におけるマナー
イスラームにおいて弔辞は故人の家族を慰め、そしてその痛みを軽減させるために定められました。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言っています:
「アッラーは苦難にある同胞を慰める信仰者を、審判の日に栄誉の衣で包んで下さろう。」(イブン・マージャの伝承)
弔辞する者は故人の家族に祈りの言葉をかけ、そしてその不幸に辛抱することにおいてアッラーからの報奨を受けることを想起させることで、励ますのです。教友ウサーマ・ブン・ザイドはこう伝えています:
「私たちが預言者と共にある時、彼の娘の一人が彼に来てくれるよう使いを送って来ました。彼女の子供は死に瀕していたのです。預言者は使いの男に言いました:“彼女の元に戻り、こう言うのだ:「実にアッラーがお取りになったものとお与えになられたものは、アッラーに属する。そしてかれの御許にあるもの全てには、決められた定命がある。」そして彼女に辛抱し、またそうすることにおいて報奨を期待するよう伝えるのだ。”するとまた預言者の元に使いがやって来て、言いました:“彼女はあなたが絶対来てくれるように、と言っています。”それで預言者はサアド・ブン・ウバーダとムアーズ・ブン・ジャバルと共に立ち上がり、私も彼らに同行しました。預言者が子供を抱き上げると、その魂はまるで空の容器(に液体を入れる時)のように震えて(そこから旅立とうとして)いました。すると彼の両目から涙が流れたので、サアドはこう言いました:“アッラーの使徒よ、それは何ですか?”彼は答えました:“これはアッラーがそのしもべにお授けになられた慈悲の心だ。実にアッラーは慈悲深いしもべを慈しまれるのである。”」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
ムスリムは故人がアッラーのご慈悲を授かれるよう、祈願すべきとされます。イスラーム四大法学派の祖の一人であるアッ=シャーフィイーは、故人の家族に次のような言葉をかけてやることを好んだと言います:
「アッラーがあなたの報奨を偉大なものとされ、またあなたのお悔やみをよきものとされ、そして故人をお赦しになられるよう。」
また故人の家族に食事を世話してやることも、推奨されています。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:
「(他界した)ジャアファルの家族に食事を用意せよ。実に彼らを忙しくさせる出来事が、彼らを襲ったのだから。」(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィーの伝承)
睡眠に関するマナー
ムスリムは就寝の際、アッラーの御名を唱えてから体の右側を下にして横になり、かれ以外の何ものも自分を害するものはないということを確認します。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「就寝する時には、腰巻で寝床を振り払うのだ。そしてアッラーの御名を唱えよ。というのも、(その寝床の主は、彼が)そこを後にしてから何がそこに入って来たかを知らないからである。そして横になる際には体の右側を下にして、こう言うのだ:“崇高なるかな、わが主よ。あなたの御名において私は就寝し、また起床します。私の魂を(眠っている間にその死でもって)引き留められるならば、それにご慈悲をおかけ下さい。そしてもしそれを解き放って生き続けさせるというのであれば、あなたが正しいしもべを守護されるところのものでもって、それをお守り下さい。”」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
一方起床する際には、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)が唱えていた次のような祈りの言葉を唱えることが推奨されています。教友フザイファはこう伝えています:
「預言者(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は夜就寝する際には、右手を頬の下に置いてこう言ったものでした:“アッラーよ、私はあなたの御名において死に、そして生きます。”そして起床する時にはこう言ったものでした:“私たちを死なせた後に生き返らせられたアッラーに、全ての賞賛あれ。そしてかれにこそ、(最後の日の)召集があります。”」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
またムスリムは、夜の早い時間に就寝するべきとされます。但し何らかの必要性がある場合はその限りではありません。
「預言者(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は夜の礼拝(イシャーの礼拝)の前に眠ること、及びその後に話すことを厭われました。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また、うつぶせに寝ることはイスラームにおいて忌避されています。教友アブー・フライラによれば、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はうつぶせに寝ている者の横を通りかかった際、その者を足で小突いてこう言いました:
「実にアッラーは、そのように寝ることをお嫌いになられる。」(アッ=ティルミズィーの伝承)
また就寝前には、何らかの害を及ぼす恐れのあるものに対して用心することが必要とされています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「実にその火は、あなたの敵である。ゆえに就寝時にはそれを消すのだ。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
配偶者と性交渉する際のマナー
イスラームにおいて 配偶者と性交渉する前には、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)がそうしていたように、アッラーの御名を唱えるべきとされます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「 (性交渉のために)妻のもとに赴く際に、“アッラーの御名において。アッラーよ、私たちから悪魔を遠ざけて下さい。そしてあなたが私たちにお授け下さるものから、シャイターンを遠ざけて下さい」と言う者は、もしその時彼らの間に子供が授けられることになっていたのなら、シャイターンはその子を害することがないであろう。”」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また配偶者は共に楽しみ合うことが勧められています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、教友ジャービルにこう言いました:
「ジャービルよ、結婚したのか?」ジャービルは言いました:「はい。」預言者は言いました:「処女か、それとも既婚者か?」ジャービルは言いました:「既婚者です。」預言者は言いました:「どうして処女と結婚しないのか?一緒に遊び、お互いに笑い合うことが出来るというのに。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の妻の一人であるアーイシャは、こう伝えています:
「アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は彼の断食中に、私に接吻したものでした。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)配偶者同士は、好きなように戯れ合うことが許されています。ある時教友ウマルは預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)のもとにやって来て、次のように言いました:
「アッラーの使徒よ、私はもうだめです。」アッラーの使徒は言いました:「何がもうだめなのだ?」彼は言いました:「私は夜に、(妻との性交の)体勢を変えてしまったのです!」アッラーの使徒は何も答えませんでしたが、ウマルはこう伝えています:「その時、クルアーンの次の節がアッラーの使徒に下ったのです:あなた方の妻たちはあなた方の耕作の場である。ゆえにどこでも望む所から、耕作するがよい。(クルアーン 2:223)」(アッ=ティルミズィーとイブン・マージャの伝承)
また男性は射精後、女性の気分を害さないためにも、すぐ彼女から離れてしまわないようにすべきであるとされます。また配偶者同士が二人の間の秘め事を他人に漏らしたりすることは、固く禁じられています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「実に審判の日にアッラーの御許で最悪の場所にある者とは、妻と性的関係をもった後にその秘密を暴くような者である。」(ムスリムの伝承)
旅行のマナー
ムスリムは旅立ちの前、全ての信託物や債務などを果たしていること、また後に残す家族に十分な物資が供給されていることなどを確認しなければなりません。また誰かから不当に手に入れた物などがあれば、それを返却しておく必要があります。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:
「その同胞に何らかの不正を働いた者は、それから身を解き放つのだ。というのも(審判の日には、不正な手段をもって同胞から取った)いかなる財も、それゆえにその(現世での)善行が(被害者である)同胞のものに移転され、またもしその者に善行がなければ、(被害者である)その同胞の(現世での)悪行がその者に担わせられないことはないからである。」(アル=ブハーリーの伝承)
イスラームでは単独の旅行は忌避されます。しかしどうしても伴侶が見つからない場合は、その限りではありません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、旅から戻って来たある男にこう言いました:
「誰と共に旅行したのだ?」男は答えました:「誰も。」すると、預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言いました:「単身の旅行者は悪魔であり、二人で旅行する者は二人の悪魔である。しかし三人で旅行する者は、集団で共に旅行する者なのである*。」(アル=ハーキムの伝承)(*アッラーの命に反する者は悪魔に従う者であり、その意味で預言者(彼にアッラーの祝福と平安あれ)はこの言い回しを用いたのだという解釈があります(アル=ムバーラクフーリー著ジャーミゥ・アッ=ティルミズィー解説「トフファト・アル=アフワズィー」より)。)
また旅の伴侶には、善い者を選ばなければなりません。そして何人かいる場合は、その内の誰かをリーダーに選びます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:「三人で旅立つ時には、誰かをリーダーとせよ。」(アブー・ダーウードの伝承)
旅から帰還したら、その予定日を家族に前もって伝えておくのがイスラームの作法です。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はそのようにする習慣があり、また夜に旅から戻って帰宅することを避けていました。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「長らく家を留守にしていのなら、(旅路から)帰って来た夜に帰宅するのではない。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また旅立ちの際には、家族や友人に別れの挨拶をしておきます。尚旅先での用事が終わったら、無駄な遅延をせずに家族のもとに帰ることを心がけます。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「旅行は懲罰の一部である。というのもあなた方はそこにおいて飲食や睡眠を妨げられるからである。それゆえ(旅行先の)用事を終えたら、家族の下へ急ぎ帰るがよい。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
公共財産に関連するマナー
イスラームには公共財産に関連して、守られるべきある種のマナーが存在します。その内の一つとして、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は公道や歩道を歩く時の作法に関してこう述べています:
「公道に座りこむのではない。」それで(教友たちは)言いました:「アッラーの使徒よ、話し合うための場所が他にないのです。」すると(預言者は)言いました:「やむを得ずそうするなら、公道での義務を守るのだ。」(教友たちは)言いました:「公道の義務とは何ですか、アッラーの使徒よ。」(預言者は)言いました:「視線を(様々な問題を及ぼす物事から)下げること、害悪の阻止、挨拶を返すこと、そして勧善懲悪である。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
また別の伝承ではこうあります:
「…そして惨めな境遇にある者を慰め、迷っている者を導いてやることである。」(アブー・ダーウードの伝承)
またムスリムは公道に配慮を払い、公共の物を損ねたりしてはなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「人々の呪いを買う二つの事から身を慎むのだ。」人々は言いました:「人々の呪いを買う二つの事とは何ですか、アッラーの使徒よ。」彼は答えました:「人通りのある道、そして人々が日差しから身を護るための物陰で用便をすることである。」(ムスリムの伝承)
また公共の場において、他人を害するような物を持ち運んだりしてもなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「あなた方が私たちのモスクや市場を通る際に矢を持っている時には、その刃を手で押さえるのだ。それによってムスリムを傷つけることがないようにするためである。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
商取引におけるマナー
一般的に言って、イスラームでは全ての商取引が合法とされます。というのもそれは売る者と買う者の間でなされる、物品の交換であるからです。しかし問題は二者間の一方に被害が生じる可能性のある類のもので、そのような種類の取引は非合法と見なされ、禁じられます。至高のアッラーはこう仰いました:
信仰者たちよ、あなた方の間であなた方の財産を不当に貪ってはならない。(クルアーン 4:29)
一方でイスラームはよき手段でもって稼いだものと、正しい形での取引から生じた利益を最善のものと見なしています。どのような稼ぎが最善かつ最も純粋であるかと尋ねられ、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう答えました:
「自らの手を用いた労働と、全ての偽りのない取引(によって稼いだもの)である。 」(アフマドの伝承)
イスラームは商取引において、誠実であることを義務付けています。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「誠実で正直なムスリム商人は、審判の日に殉教者らと共にあろう。」(アル=ハーキムの伝承)
またもしそれが人の目に明らかではなくとも、取引の対象に何らかの欠陥があるならば、それを前もってきちんと説明しておくのがムスリムとしての義務です。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「いかなる物も、その欠陥などを説明することなく売却してはならない。また何かしらの欠陥があることを知りつつ、それを明らかにせずに売却してはならない。」(アフマドの伝承)
当然ながら、人を騙すことも禁じられています。アブー・フライラ(彼にアッラーのご満悦あれ)によれば、アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はある時積み重なった食料の山を通りかかりました。そしてそこに手を入れると、指が濡れたのでこう言いました:
「(この)食料の持ち主よ、これは一体どうしたことか?」すると(食料の持ち主は)言いました:「アッラーの使徒よ、雨で濡れてしまったのです。」それで(預言者は)言いました:「それでは人々が(一目見て)分かるように、その(濡れた)部分を上にしておけばいいではないか?インチキをする者は私たちの仲間ではないのだぞ。」(ムスリムの伝承)
取引においてムスリムは正直であるべきであり、嘘をついてはいけません。 アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「売買交渉する両者は、その(売買取引の)場にある限り、(取引の最終決定に関する)選択権を有する。それで(その交渉取引において両者が)正直であり、また(商品の詳細に渡って)説明するならば、彼らはその取引において祝福されるであろう。しかし(その交渉取引において両者が)何かを隠蔽し、また嘘をついたりするならば彼らのその取引における祝福は抹消されるであろう。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
またムスリムは売買において許し深くなければなりません。というのもそれこそが取引する者たちの関係を強化する一つの手段なのであり、人類愛や兄弟愛を損ねるところの物質主義を排斥するものであるからです。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言いました:
「アッラーは売買、及び(債務などの)遂行において寛容な者を慈しまれる。」(アル=ブハーリーの伝承)またムスリムは取引において、やたらと誓いの言葉を発してはなりません。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)はこう言っています:
「商売において無闇に誓いを立てるのではない。嘘の誓いは商品(を手早くさばく)には役立つが、(真の)利益を抹消してしまうものである。」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承)
またもし買い手が取引を後悔しているような場合には、その取引を解消してやることがイスラームの推奨しているやり方です。アッラーの使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は言いました:
「ムスリムを(契約における失敗において)大目に見てやる者は、アッラーによって審判の日、その失敗を大目に見て頂けるであろう。」(アブー・ダーウードとイブン・マージャの伝承)
これらのことが、イスラームが定めているマナーの一部です。イスラームにはこれ以外にも沢山のマナーが存在しますが、この小冊子の目的である簡潔さから逸脱してしまわないためにも、ここに挙げるものだけに留めておきました。しかしイスラームにおいては人生のいかなる場面においても、それに対応するクルアーンの句や預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の伝承が存在することをご存知頂けたであろうと思います。そしてその理由こそは、ムスリムの全人生がアッラーへの崇拝行為となるためなのであり、また全人生において沢山の善行を手に入れることが出来るようにするためなのです。
最後に
最後に、イスラームに改宗した二人の者の言葉でもって、締めくくりたいと思います。F.フィルウィース*はこう断言しています:(*第一次・第二次世界大戦に参加したイギリス海軍将校。キリスト教の環境と文化を背景に育ち、それに深い影響を受けましたが、クルアーン及び諸々のイスラーム文学に出会ったことで 1924 年にイスラームに改宗しました。)
「西欧はいかなる信念も信仰も幸福をもたらしてはくれないような、膨大な精神的空白によって病んでいる。いわゆる人々の経済的繁栄と物質的需要の満足にも関わらず、西欧人は人生の無意味さを感じているのだ。彼は自問する:“私は何故生きているのだろう?私はどこへ向かっているのだ?どうして?”しかし誰も彼に満足の行く答えを与えてはくれない。そして不幸にもその治療薬は、彼が疑念と誤解以外にはいかなる知識も持ち合わせてはいない“正しい宗教”の中に潜んでいる、などということは思いもしないのである。しかしながら僅かばかりとはいえ、西欧人の集団がイスラームを受容し始めたことで、光線が差し込み、夜は明け始めてきた。今や西欧人は、イスラームの手法に則り、それに沿って生活する男女を目の当たりにし始めたのである。この真実の宗教は毎日、何人かの人々に受け入れられている。そしてこれはまだ単なる序章に過ぎないのだ…。」
またデボラ・ポッター*はこう述べています:
「神の法であるイスラームは、私たちの身の回りの自然に明白に表れています。山も海も、惑星も恒星も、アッラーの命に基づいた軌道に沿って動きます。それらは全て創造主アッラーの命に服従した状態にあるのであり、それはあたかも‐アッラーにこそ最善の喩えは属します‐御伽噺の中のキャラクターのようです。それらは著者の決定なしには喋りもしなければ、動きもしません。同様にこの宇宙における全ての原子もまた、例えそれが生命体ではなくても、服従の状態にあります。しかし人間だけはこの法則から免れています。アッラーは人間に、選択の自由を与えられたのです。人間はアッラーの命に服するか、あるいは自らの法と自らが好む宗教の前にひざまずくかの選択権を与えられているのです。不幸なことに人間は大方の場合において、後者の方を選んでいます。ヨーロッパとアメリカのイスラーム改宗者の多さは、彼らが心の平安と精神的な安らぎに飢えているからです。イスラームを破壊し、その疑わしい欠陥の数々を示そうとしたキリスト教徒のオリエンタリストや宣教師自身、イスラームに改宗しています。これこそは真理の証拠が決定的であることを表しているでしょう。これを否定することは不可能なのです。」(*1954 年アメリカのミシガン州生まれ。ミシガン大学でジャーナリズムの学士を取得。イマードッディーン・ハリール著「イスラームについて彼らは何を語っているか?」からの抜粋です。)
全ての賞賛は万有の主アッラーにこそあり。
アッラーがその使徒を称揚され、また彼をいかなる中傷からもお守り下さいますよう。
『イスラームのメッセージ』アブドゥッラフマーン・アッ=シーハ著より